No.27 三面楚歌2(1565-68年)
をテンプレートにして作成
[
トップ
] [
新規
|
一覧
|
検索
|
最終更新
|
ヘルプ
]
開始行:
*三面楚歌2(1565-68年) [#ec41ea2a]
#contents
**南へ! [#x59c6f19]
1566年12月、ヴェネツィアは未曾有の国難の中にあった。
ならず者である隣国シエナの突然の宣戦布告により、三大強国...
一度に相手にしなければならなくなったのだ。
その兵力差は10倍である。
「ドージェ。コンティジェンシープランSの発動を至急裁可願い...
陸軍大臣は元首執務室に入ってくるなりそう言った。
「あれは、対オーストリアだけを想定したもので、今回のよう...
ヴェネツィア共和国第77代ドージェ(元首)マルコ・ドルフィ...
コンティジェンシープランSとは、オーストリアが突然参戦して...
兵力を南部州で集結させるという予め定められた緊急作戦のコ...
ヴェネツィアは、領土が北部と南部に分断されているため、オ...
時間を稼いでアドリア海経由でヴェネツィアに兵を輸送し、機...
この緊急計画の狙いであった。
しかし、今回の場合、南部州にはオスマン帝国軍が次々に派兵...
さらにオーストリアとオスマン帝国も戦争中であるため、南部...
おまけにオスマン帝国は大量の海軍艦船を擁しており、アドリ...
「ドージェ。このままではどちらにしても、クロアチアとイス...
まずは南部に集結させ、オスマン帝国軍の撃破に全力を。
もはや一刻の猶予もなりません!」
「分かった。裁可する。」
すぐさま狼煙があげられ、クロアチア及びイストリア駐在の共...
オーストリア軍がクロアチアに到着したのは、共和国軍イスト...
**対オスマン帝国戦 [#ob111c4a]
オスマン帝国領は広大であり、援軍が到着するのに時間がかか...
到着までの間に各個撃破で敵兵力を削っていき、少しでも兵力...
これが陸軍の立案した基本戦略である。
共和国軍は、3軍に分かれ集団で各個撃破を図っていった。
-第1軍
--(1566年12月18日)ボスニア会戦
--(1567年1月14日)ゼタ会戦
--(1567年2月26日)ラリッサ会戦
-第2軍
--(1567年1月9日)マケドニア会戦
--(1567年2月18日)コソボ会戦
--(1567年2月27日)ニシュ会戦
-第3軍<クロアチア方面軍>
--(1567年2月3日)ゼタ防衛戦
これら全てで敵軍を全滅させるという華々しい成果であった。
さらに、1567年2月5日、海軍第1艦隊はアドリア海方面に兵員輸...
これで、オスマン陸軍兵力は約3分の1にまで減少した。
もちろん我が軍はほぼ無傷である。
しかし、我が国の命運を握っているのは制海権である。
ヴェネツィアは他国から侵略された場合に、伝統的に首都とテ...
「負けない戦」を行ってきた。
たいした海軍力を持たない欧州各国との戦いではそれでよかっ...
ガレー船50隻が金角湾からアドリア海に突撃してきたら勝ち目...
アドリア海を握られることは、オーストリアに敗北することを...
「ドージェ、痛みわけならばオスマン帝国と講和が成立しそう...
「ここまで勝っていながら領土の1つもとれないのはもったいな...
1567年3月2日、ヴェネツィア共和国とオスマン帝国との間に講...
痛みわけであった。
残るは、オーストリア、フランス、シエナ。
その兵力差、約6.5倍。
どのようにして反撃していくべきか。
(No.28に続く)
----
&size(15){前話「[[No.26 三面楚歌1(1565-68年)]]」にもど...
&size(15){タイトル「[[アドリア海の女王]]」にもどる};
終了行:
*三面楚歌2(1565-68年) [#ec41ea2a]
#contents
**南へ! [#x59c6f19]
1566年12月、ヴェネツィアは未曾有の国難の中にあった。
ならず者である隣国シエナの突然の宣戦布告により、三大強国...
一度に相手にしなければならなくなったのだ。
その兵力差は10倍である。
「ドージェ。コンティジェンシープランSの発動を至急裁可願い...
陸軍大臣は元首執務室に入ってくるなりそう言った。
「あれは、対オーストリアだけを想定したもので、今回のよう...
ヴェネツィア共和国第77代ドージェ(元首)マルコ・ドルフィ...
コンティジェンシープランSとは、オーストリアが突然参戦して...
兵力を南部州で集結させるという予め定められた緊急作戦のコ...
ヴェネツィアは、領土が北部と南部に分断されているため、オ...
時間を稼いでアドリア海経由でヴェネツィアに兵を輸送し、機...
この緊急計画の狙いであった。
しかし、今回の場合、南部州にはオスマン帝国軍が次々に派兵...
さらにオーストリアとオスマン帝国も戦争中であるため、南部...
おまけにオスマン帝国は大量の海軍艦船を擁しており、アドリ...
「ドージェ。このままではどちらにしても、クロアチアとイス...
まずは南部に集結させ、オスマン帝国軍の撃破に全力を。
もはや一刻の猶予もなりません!」
「分かった。裁可する。」
すぐさま狼煙があげられ、クロアチア及びイストリア駐在の共...
オーストリア軍がクロアチアに到着したのは、共和国軍イスト...
**対オスマン帝国戦 [#ob111c4a]
オスマン帝国領は広大であり、援軍が到着するのに時間がかか...
到着までの間に各個撃破で敵兵力を削っていき、少しでも兵力...
これが陸軍の立案した基本戦略である。
共和国軍は、3軍に分かれ集団で各個撃破を図っていった。
-第1軍
--(1566年12月18日)ボスニア会戦
--(1567年1月14日)ゼタ会戦
--(1567年2月26日)ラリッサ会戦
-第2軍
--(1567年1月9日)マケドニア会戦
--(1567年2月18日)コソボ会戦
--(1567年2月27日)ニシュ会戦
-第3軍<クロアチア方面軍>
--(1567年2月3日)ゼタ防衛戦
これら全てで敵軍を全滅させるという華々しい成果であった。
さらに、1567年2月5日、海軍第1艦隊はアドリア海方面に兵員輸...
これで、オスマン陸軍兵力は約3分の1にまで減少した。
もちろん我が軍はほぼ無傷である。
しかし、我が国の命運を握っているのは制海権である。
ヴェネツィアは他国から侵略された場合に、伝統的に首都とテ...
「負けない戦」を行ってきた。
たいした海軍力を持たない欧州各国との戦いではそれでよかっ...
ガレー船50隻が金角湾からアドリア海に突撃してきたら勝ち目...
アドリア海を握られることは、オーストリアに敗北することを...
「ドージェ、痛みわけならばオスマン帝国と講和が成立しそう...
「ここまで勝っていながら領土の1つもとれないのはもったいな...
1567年3月2日、ヴェネツィア共和国とオスマン帝国との間に講...
痛みわけであった。
残るは、オーストリア、フランス、シエナ。
その兵力差、約6.5倍。
どのようにして反撃していくべきか。
(No.28に続く)
----
&size(15){前話「[[No.26 三面楚歌1(1565-68年)]]」にもど...
&size(15){タイトル「[[アドリア海の女王]]」にもどる};
ページ名: