属州がいっぱい14 第十四章 皇帝と教皇
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*皇帝と教皇 [#c49df1b5]
北欧の雄であり中東のシャーハンシャー(諸王の王)スウェー...
後に大帝とも、最初の啓蒙専制君主とも呼ばれるジョアシャン1...
啓蒙専制君主とは、啓蒙思想を掲げる絶対君主として理解され...
絶対君主が身分団体や経済的特権団体などの「社団」を利用し...
ブロワ朝神聖ローマ帝国の歴代君主をあえて分類するならば、...
絶対君主の代表選手のように言われるフランソワ1世は有名な「...
ジョアシャン1世は「ベルリン勅令」で帝国諸候の特権を剥奪し...
つまり、啓蒙専制君主と呼ばれるジョアシャン1世の成したこと...
**啓蒙専制君主の宗教政策 [#w2de2387]
ジョアシャン帝はチュニジア戦争で紅海の出口を扼するソコト...
***ケルン再征服戦争と平民出の将軍 [#icf93aef]
1729年8月27日にケルンの再征服を掲げてジョアシャン帝は宣戦...
ケルン再征服戦争において特筆すべきことは、東部方面軍を預...
数代前に絶頂期を迎えたフランス貴族主義は新大陸の発展と帝...
***権利の章典と教皇 [#t6d7421c]
商工者の相対的な地位向上を貴族や僧侶の力を削ぐために利用...
均質な国民を創造するつもりであったジョアシャン帝にとって...
「ナントの勅令」はカソリック以外のキリスト教の各派の信仰...
時の教皇イウリウス2世は皇帝の「ナントの勅令」「博愛の精神...
皇帝の新しい勅令が帝国内に沁みわたると、
「皇帝は教皇の御者だが、最近は御者が馬車に上がるときに教...
ヴァチカンの相対的地位の低下を狙ったジョアシャン帝の政策...
皇帝は次の一手を打つ準備を終えたと判断した。
**教皇の島流し [#e6984d83]
***1730年代の経済政策 [#c7a22658]
ギルドの国家管理、国立銀行の設置、東インド会社の株式を国...
帝国の次なる課題は90年前からの事業であるインフレ問題であ...
***対外政策と概況 [#w4f94cc2]
#ref(1733-e.jpg,around,right,100%,イタリア戦争直前の欧州);
ジョアシャン帝の征服事業といわれるものは、実は多くはない...
度重なるジョアシャン帝の征服事業は国内には叛乱、諸外国か...
帝国中興までの、また中興後の統合戦争において、「帝国主義...
***イタリア戦争序盤の流れ [#q3cf1bf0]
1733年にモデナの帝国復帰(領有権)を主張してモデナ戦争が...
1734~35年にはブルガリア戦争が起った。こちらはイベリア、...
しかし2年のうちに悪評は16ポイントも上昇。厭戦感情は2ケタ...
ジョアシャン帝は4年の冷却期間をおいて、イタリア戦争中盤戦...
つまり、教皇領包囲体制は完了しつつあったのだった。
***教皇戦争(イタリア戦争) [#sa0fc096]
1742年1月、ジョアシャン帝の帝国宗教政策は最終局面を迎えた。
帝国は教皇領からの防衛部隊を退去。防衛費負担義務を解除し...
翌2月には、「上告禁止法」を発布。同法はあらゆる宗教問題の...
教皇は御者に振り落とされたのだ。
5月、満を持してジョアシャン帝は「上告禁止法」を承諾しない...
当然教皇はそれをよしとせず、カソリック諸候に聖戦を呼び掛...
シャルルマーニュの寄進状によれば、800年にカール大帝によっ...
ローマの街並みは古代帝国の首都の頃とはだいぶ様子が変わっ...
1742年7月11日、イタリア方面軍司令ベルナール・オールネー将...
永遠の都ローマにローマ人以外の軍靴の音が響くのはここ数百...
占領されたヴァチカンを含むローマ全市は皇帝の直轄地として...
イタリア戦争自体は1743年12月のトスカナ降伏まで続けられた...
カソリック信仰が特に篤い地域であったため、原理主義者によ...
**ルイス6世の治世1743年9月19日~ [#y28ea8a8]
ルイス6世は幼少の頃より、神に愛された才能を持つ皇太子との...
***イタリア戦争の処理 [#w94ac798]
ルイス6世の仕事はまずイタリア戦争を終結させることであった...
アフリカに国家が移動してしまったトスカナを攻略すべく派遣...
イタリア戦争によって、イタリア半島の非帝国領域はパルマ、...
イタリア戦争終結直後の悪評は47.3、国威、正統性は共に100、...
悪評47.3/38.0はルイス6世政権の能力をもってすれば、4~5年...
***外交官と戴冠式 [#s8c359bd]
この半年というもの、外交官ミシェル・ド・ロシュモルは多忙...
イタリア戦争の後始末と新帝の即位で帝国重臣はだれもが程度...
プロヴァンス=フランス時代に内閣制が取り入れられたのは17...
5月半にエキュールはチュニス及びアフリカ軍団視察に向かうた...
彼を忙しくさせていたのは来年9月に予定されている戴冠式だっ...
さらに今回の戴冠式は教皇との決別と宗教的な平等を示すため...
新帝の戴冠式は帝国再興の宣言がされてから初めてである。諸...
新帝は、プロヴァンス、フランス、ドイツ、ボヘミア、イタリ...
ブロワ朝が復興させるまでの帝国は、「神聖」の定義や根拠が...
ローマへ到着した新帝は翌日、サン・ピエトロ大聖堂へ向かっ...
サン・ピエトロ大聖堂は、その装飾と外観は宗教芸術の粋を極...
ルイス6世の戴冠式は今回そのサン・ピエトロ大聖堂で挙行され...
いわくつきの大聖堂で既存の聖職者の権威を無視して見せるこ...
***大海軍建設と東地中海の覇権 [#hdde8b3f]
#ref(1750-e.jpg,around,right,100%,1750年頃の欧州);
「海上覇権の獲得」が急務である。それはジョアシャン帝の御...
ルイス6世の時代に海軍増強計画が完了し、戦闘用ガレオン57隻...
世界最大の海軍を建設したとはいえ、各艦隊の担当正面では、...
帝国は欧州という巨大半島の北岸と南岸にそれぞれ艦隊を配備...
1745年4月に始まったオスマン-帝国懲罰戦争と、1748年の7月、...
ちなみに、北岸艦隊にとっても仮想敵とする海軍はスウェーデ...
***ルイス6世の治世のおわり [#nf788bd1]
ジョアシャン~ルイス6世の治世で中央集権化が図られたとする...
両帝の事蹟は中世的権威と特権の撤廃であり、「上からの改革...
ルイス6世はその治世の晩年に議会解散法を1748年9月5日に、鉱...
貴族らの議会を上院、第三身分の議会を下院とし、両院は3年ご...
しかしながら第三身分と呼ばれる、帝国の人口のほとんどを占...
1752年7月13日、ルイス6世は自らのなしたことの影響を見る機...
享年35歳であった。
|#ref(1733-52.jpg,around,right,100%,よくわかる近世ヨーロ...
**ジャン1世シャルル(ヨハン1世カール)・ド・ブロワ 1752...
***摂政内閣とシチリア(南イタリア)戦争 [#s086b473]
カエルの子はカエル、天才の子は天才なのか、ジャン=シャルル...
ミシェル・ド・ロシュモルは当時首相として組閣したばかりだ...
ロシュモル内閣は周辺諸国との関係改善(悪評の低下)を最重...
#ref(1750-n.jpg,around,right,100%,1750年の新大陸);
1755年のシチリア戦争はプロイセン、イングランド、トランシ...
新大陸沿岸の海賊退治で鳴らしたレオポール・ジャン・マイヤ...
しかし、陸では負け知らずであった。新大陸北部を守るアント...
トランシルバニアはソルノクへ兵をすすめたが、あいた本国を...
プロイセンはこの度の戦争においてその国土の全てを占領され...
***ジャン1世シャルルによる親政 [#p16cf4f9]
1756年7月13日、戴冠式ツアーから戻ったジャン1世シャルルに...
14歳のジャン=シャルルに12歳の世継ぎアンリ(ハインリヒ)が...
***信仰寛容の宣言 [#d1a835b1]
身分が高くなればなるほど信仰心は低くなるという言葉が真実...
信仰心の有無が疑わしい二人にとって不幸なことは、カソリッ...
皇帝は若く、教皇は年老いていた。若い皇帝は年寄りからの手...
少年と言ってよい年齢の皇帝にとっては教皇の年齢による寂寞...
1759年4月29日、皇帝ジャン1世シャルルの名において「信仰寛...
ジャン1世シャルルのとった政策をもって、帝国は絶対主義から...
***ザルツブルク再征服戦争 1761年5月~10月 ...
1761年5月に始まったザルツブルク再征服戦争は、帝国の宗教政...
教皇に対する仕打ちを目の当たりにしたはずの連合国であった...
中世的秩序と権威、これを破壊しないことには、ローマという...
連合軍はあっという間に帝国の大軍に飲み込まれ、7月1日まで...
ブルガリア攻略を終えた帝国東方軍集団はスウェーデンとの通...
1762年2月1日、教皇は帝国を御者とした。教皇にとって帝国と...
***新大陸であがった狼煙と軍制改革 [#z034e44a]
ザルツブルク再征服戦争の結果、欧州において帝国に敵対する...
しかし、大西洋を隔てた対岸の大陸で事件が起きた。
1764年にカリブ海のはずれの小島ハイチが独立宣言。さらに、1...
1766年のマゾヴィアからの援軍要請は、ウクライナによる侵攻...
戦後、帝国はクールホルン砲、アルメブランシュ騎兵、キャロ...
新設の連隊は東部国境と、来るべき叛徒との対決に備えて新大...
**アンリ(ハインリヒ)4世 1767年4月10日~ [#s6bca4b1]
***遺産 [#k54085be]
帝位を継承したアンリ4世は、先帝からもう一つのモノを受け継...
教皇は毎月呆然としたり、驚嘆したり、懸念したり、激怒して...
しかし皇帝は教皇の意向を完全に黙殺した。皇帝にとって教皇...
このとき皇帝が形だけでももう少しだけ教皇に譲歩していれば...
***惨劇 [#o527ec92]
さて、現実には愛の宗教を信じるものとて原理主義に陥れば、...
今回のテロルはその最悪の原理主義者に暗くうすら寒い微笑を...
皇太子レオポール=フェルディナン(レオポルト・フェルディナ...
「誰かが殿下の体にかけておいてくれた白い布は、殿下の体か...
現場には犯人を特定するための証拠は何も残されていなかった...
しかし、状況的にはかなり不利な状況にある。
そのことを理解する程度の聡明さは持ち合わせていた。信徒の...
***結末 [#z9864c93]
11月1日、皇帝アンリ4世は教皇庁に宣戦。テロリストの引き渡...
パルマが教皇に味方したが、1カ月とたたぬうちに教皇に味方し...
エクサンプロヴァンスから始まったブロワ朝が、街の守護聖人...
----
前章よりのジョアシャン帝の目論見はローマ征服、教皇追放で...
ですが、まだ遷都は行われていません。遷都を行うにはローマ...
この物語ではジョアシャン帝は絶対主義から啓蒙専制君主への...
カソリックで統一された欧州。教皇がローマにあり、帝国は対...
教皇をやっつけるという課題を達成する条件は、「国教である...
|#ref(宗教.jpg,around,right,100%,1760年の状況);|
#br
**à suivre [#i3b58326]
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*皇帝と教皇 [#c49df1b5]
北欧の雄であり中東のシャーハンシャー(諸王の王)スウェー...
後に大帝とも、最初の啓蒙専制君主とも呼ばれるジョアシャン1...
啓蒙専制君主とは、啓蒙思想を掲げる絶対君主として理解され...
絶対君主が身分団体や経済的特権団体などの「社団」を利用し...
ブロワ朝神聖ローマ帝国の歴代君主をあえて分類するならば、...
絶対君主の代表選手のように言われるフランソワ1世は有名な「...
ジョアシャン1世は「ベルリン勅令」で帝国諸候の特権を剥奪し...
つまり、啓蒙専制君主と呼ばれるジョアシャン1世の成したこと...
**啓蒙専制君主の宗教政策 [#w2de2387]
ジョアシャン帝はチュニジア戦争で紅海の出口を扼するソコト...
***ケルン再征服戦争と平民出の将軍 [#icf93aef]
1729年8月27日にケルンの再征服を掲げてジョアシャン帝は宣戦...
ケルン再征服戦争において特筆すべきことは、東部方面軍を預...
数代前に絶頂期を迎えたフランス貴族主義は新大陸の発展と帝...
***権利の章典と教皇 [#t6d7421c]
商工者の相対的な地位向上を貴族や僧侶の力を削ぐために利用...
均質な国民を創造するつもりであったジョアシャン帝にとって...
「ナントの勅令」はカソリック以外のキリスト教の各派の信仰...
時の教皇イウリウス2世は皇帝の「ナントの勅令」「博愛の精神...
皇帝の新しい勅令が帝国内に沁みわたると、
「皇帝は教皇の御者だが、最近は御者が馬車に上がるときに教...
ヴァチカンの相対的地位の低下を狙ったジョアシャン帝の政策...
皇帝は次の一手を打つ準備を終えたと判断した。
**教皇の島流し [#e6984d83]
***1730年代の経済政策 [#c7a22658]
ギルドの国家管理、国立銀行の設置、東インド会社の株式を国...
帝国の次なる課題は90年前からの事業であるインフレ問題であ...
***対外政策と概況 [#w4f94cc2]
#ref(1733-e.jpg,around,right,100%,イタリア戦争直前の欧州);
ジョアシャン帝の征服事業といわれるものは、実は多くはない...
度重なるジョアシャン帝の征服事業は国内には叛乱、諸外国か...
帝国中興までの、また中興後の統合戦争において、「帝国主義...
***イタリア戦争序盤の流れ [#q3cf1bf0]
1733年にモデナの帝国復帰(領有権)を主張してモデナ戦争が...
1734~35年にはブルガリア戦争が起った。こちらはイベリア、...
しかし2年のうちに悪評は16ポイントも上昇。厭戦感情は2ケタ...
ジョアシャン帝は4年の冷却期間をおいて、イタリア戦争中盤戦...
つまり、教皇領包囲体制は完了しつつあったのだった。
***教皇戦争(イタリア戦争) [#sa0fc096]
1742年1月、ジョアシャン帝の帝国宗教政策は最終局面を迎えた。
帝国は教皇領からの防衛部隊を退去。防衛費負担義務を解除し...
翌2月には、「上告禁止法」を発布。同法はあらゆる宗教問題の...
教皇は御者に振り落とされたのだ。
5月、満を持してジョアシャン帝は「上告禁止法」を承諾しない...
当然教皇はそれをよしとせず、カソリック諸候に聖戦を呼び掛...
シャルルマーニュの寄進状によれば、800年にカール大帝によっ...
ローマの街並みは古代帝国の首都の頃とはだいぶ様子が変わっ...
1742年7月11日、イタリア方面軍司令ベルナール・オールネー将...
永遠の都ローマにローマ人以外の軍靴の音が響くのはここ数百...
占領されたヴァチカンを含むローマ全市は皇帝の直轄地として...
イタリア戦争自体は1743年12月のトスカナ降伏まで続けられた...
カソリック信仰が特に篤い地域であったため、原理主義者によ...
**ルイス6世の治世1743年9月19日~ [#y28ea8a8]
ルイス6世は幼少の頃より、神に愛された才能を持つ皇太子との...
***イタリア戦争の処理 [#w94ac798]
ルイス6世の仕事はまずイタリア戦争を終結させることであった...
アフリカに国家が移動してしまったトスカナを攻略すべく派遣...
イタリア戦争によって、イタリア半島の非帝国領域はパルマ、...
イタリア戦争終結直後の悪評は47.3、国威、正統性は共に100、...
悪評47.3/38.0はルイス6世政権の能力をもってすれば、4~5年...
***外交官と戴冠式 [#s8c359bd]
この半年というもの、外交官ミシェル・ド・ロシュモルは多忙...
イタリア戦争の後始末と新帝の即位で帝国重臣はだれもが程度...
プロヴァンス=フランス時代に内閣制が取り入れられたのは17...
5月半にエキュールはチュニス及びアフリカ軍団視察に向かうた...
彼を忙しくさせていたのは来年9月に予定されている戴冠式だっ...
さらに今回の戴冠式は教皇との決別と宗教的な平等を示すため...
新帝の戴冠式は帝国再興の宣言がされてから初めてである。諸...
新帝は、プロヴァンス、フランス、ドイツ、ボヘミア、イタリ...
ブロワ朝が復興させるまでの帝国は、「神聖」の定義や根拠が...
ローマへ到着した新帝は翌日、サン・ピエトロ大聖堂へ向かっ...
サン・ピエトロ大聖堂は、その装飾と外観は宗教芸術の粋を極...
ルイス6世の戴冠式は今回そのサン・ピエトロ大聖堂で挙行され...
いわくつきの大聖堂で既存の聖職者の権威を無視して見せるこ...
***大海軍建設と東地中海の覇権 [#hdde8b3f]
#ref(1750-e.jpg,around,right,100%,1750年頃の欧州);
「海上覇権の獲得」が急務である。それはジョアシャン帝の御...
ルイス6世の時代に海軍増強計画が完了し、戦闘用ガレオン57隻...
世界最大の海軍を建設したとはいえ、各艦隊の担当正面では、...
帝国は欧州という巨大半島の北岸と南岸にそれぞれ艦隊を配備...
1745年4月に始まったオスマン-帝国懲罰戦争と、1748年の7月、...
ちなみに、北岸艦隊にとっても仮想敵とする海軍はスウェーデ...
***ルイス6世の治世のおわり [#nf788bd1]
ジョアシャン~ルイス6世の治世で中央集権化が図られたとする...
両帝の事蹟は中世的権威と特権の撤廃であり、「上からの改革...
ルイス6世はその治世の晩年に議会解散法を1748年9月5日に、鉱...
貴族らの議会を上院、第三身分の議会を下院とし、両院は3年ご...
しかしながら第三身分と呼ばれる、帝国の人口のほとんどを占...
1752年7月13日、ルイス6世は自らのなしたことの影響を見る機...
享年35歳であった。
|#ref(1733-52.jpg,around,right,100%,よくわかる近世ヨーロ...
**ジャン1世シャルル(ヨハン1世カール)・ド・ブロワ 1752...
***摂政内閣とシチリア(南イタリア)戦争 [#s086b473]
カエルの子はカエル、天才の子は天才なのか、ジャン=シャルル...
ミシェル・ド・ロシュモルは当時首相として組閣したばかりだ...
ロシュモル内閣は周辺諸国との関係改善(悪評の低下)を最重...
#ref(1750-n.jpg,around,right,100%,1750年の新大陸);
1755年のシチリア戦争はプロイセン、イングランド、トランシ...
新大陸沿岸の海賊退治で鳴らしたレオポール・ジャン・マイヤ...
しかし、陸では負け知らずであった。新大陸北部を守るアント...
トランシルバニアはソルノクへ兵をすすめたが、あいた本国を...
プロイセンはこの度の戦争においてその国土の全てを占領され...
***ジャン1世シャルルによる親政 [#p16cf4f9]
1756年7月13日、戴冠式ツアーから戻ったジャン1世シャルルに...
14歳のジャン=シャルルに12歳の世継ぎアンリ(ハインリヒ)が...
***信仰寛容の宣言 [#d1a835b1]
身分が高くなればなるほど信仰心は低くなるという言葉が真実...
信仰心の有無が疑わしい二人にとって不幸なことは、カソリッ...
皇帝は若く、教皇は年老いていた。若い皇帝は年寄りからの手...
少年と言ってよい年齢の皇帝にとっては教皇の年齢による寂寞...
1759年4月29日、皇帝ジャン1世シャルルの名において「信仰寛...
ジャン1世シャルルのとった政策をもって、帝国は絶対主義から...
***ザルツブルク再征服戦争 1761年5月~10月 ...
1761年5月に始まったザルツブルク再征服戦争は、帝国の宗教政...
教皇に対する仕打ちを目の当たりにしたはずの連合国であった...
中世的秩序と権威、これを破壊しないことには、ローマという...
連合軍はあっという間に帝国の大軍に飲み込まれ、7月1日まで...
ブルガリア攻略を終えた帝国東方軍集団はスウェーデンとの通...
1762年2月1日、教皇は帝国を御者とした。教皇にとって帝国と...
***新大陸であがった狼煙と軍制改革 [#z034e44a]
ザルツブルク再征服戦争の結果、欧州において帝国に敵対する...
しかし、大西洋を隔てた対岸の大陸で事件が起きた。
1764年にカリブ海のはずれの小島ハイチが独立宣言。さらに、1...
1766年のマゾヴィアからの援軍要請は、ウクライナによる侵攻...
戦後、帝国はクールホルン砲、アルメブランシュ騎兵、キャロ...
新設の連隊は東部国境と、来るべき叛徒との対決に備えて新大...
**アンリ(ハインリヒ)4世 1767年4月10日~ [#s6bca4b1]
***遺産 [#k54085be]
帝位を継承したアンリ4世は、先帝からもう一つのモノを受け継...
教皇は毎月呆然としたり、驚嘆したり、懸念したり、激怒して...
しかし皇帝は教皇の意向を完全に黙殺した。皇帝にとって教皇...
このとき皇帝が形だけでももう少しだけ教皇に譲歩していれば...
***惨劇 [#o527ec92]
さて、現実には愛の宗教を信じるものとて原理主義に陥れば、...
今回のテロルはその最悪の原理主義者に暗くうすら寒い微笑を...
皇太子レオポール=フェルディナン(レオポルト・フェルディナ...
「誰かが殿下の体にかけておいてくれた白い布は、殿下の体か...
現場には犯人を特定するための証拠は何も残されていなかった...
しかし、状況的にはかなり不利な状況にある。
そのことを理解する程度の聡明さは持ち合わせていた。信徒の...
***結末 [#z9864c93]
11月1日、皇帝アンリ4世は教皇庁に宣戦。テロリストの引き渡...
パルマが教皇に味方したが、1カ月とたたぬうちに教皇に味方し...
エクサンプロヴァンスから始まったブロワ朝が、街の守護聖人...
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前章よりのジョアシャン帝の目論見はローマ征服、教皇追放で...
ですが、まだ遷都は行われていません。遷都を行うにはローマ...
この物語ではジョアシャン帝は絶対主義から啓蒙専制君主への...
カソリックで統一された欧州。教皇がローマにあり、帝国は対...
教皇をやっつけるという課題を達成する条件は、「国教である...
|#ref(宗教.jpg,around,right,100%,1760年の状況);|
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