ペルシア建国記6 イスラム世界の統一
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[[ペルシア建国記]]
*Mohammad Ali I世の御代(統治4/軍事8/外交7 1650年-1679年) ...
軍事、外交に才のあるMohammad Ali帝は、イスラム世界をペ...
5月、クリミア継承権戦争でシリアとアルジェリアが交戦し、...
ここでシリアから参戦要請が来たのでMohammad Ali帝は義理...
1653年、Mohammad Ali帝はエチオピアのアダルを攻撃した。...
今度の戦争では主にマムルークを落とすのが目的であった。...
モンゴルには3個軍団で北上させ、エジプトには2個軍団で侵...
モンゴル軍は意外とあっけなく倒せたので、3個軍団でがしが...
しかしマムルーク方面は意外としぶとく、ペルシア軍は攻略...
その間に、アルジェリアが市場のあるアレキサンドリアを奪...
戦力不足を感じた帝によって、新たに一個軍団が動員された...
1654年10月、ようやくエジプト全土を征服して、マムルーク...
1656年、再びイラクとナジドを攻めるべく、今度はMohammad ...
独立保護していたオスマン帝国、ナジド、イラク、シリアと...
ペルシア側についたのはグルジア、キヴァ、ナポリ、マムル...
敵側はシリアが総大将となった。
|&ref(per6.png);|
|CENTER:イスラム世界大戦争|
ペルシア軍はまずイラク、ナジド、シリアを中心に攻めてい...
しかしシリア軍の名将Al-Mu'azzam IV世によって、何度もペ...
また小アジアのオスマン領にはグルジア軍とともに1個軍団が...
オスマン軍はエジプトでマムルーク領の大半を征服していた...
次にイラクの2州全土を征服したので、首都のみに削る。これ...
1657年4月にはナジドも属領2州を陥落したので首都のみに削...
アイディン君候国は戦うこともなく降伏。属領となった。
こうして残る敵をシリアのみになると、ペルシア軍は総攻撃...
そしてペルシア軍が全土を占領して、シリアは首都以外のす...
|&ref(per7.png);|
その中には、預言者が昇天した街エルサレムも含まれている。
|&ref(per8.png);|
こうしてペルシアはアラビア半島、イラク、シリアに広大な...
BBRが21.59/32.00になったので、Mohammad Ali帝はしばらく...
また広大な新領土は各地に分散しており、ペルシア各軍団は...
政府技術がLV11になったので、ペルシア軍はEngineer Corps...
その頃、モスクワ大公国はボヘミアと黒海で何年も死闘を続...
だが、疲弊した大公国に対して、モンゴル、ノブゴロド=ビ...
デリー帝国の東征は台湾近海にまで達し、そしてついに日本...
また、この時期、アメリカ合衆国がフランスから独立した。...
1662年、オスマン帝国はスペインに首都を占領され、ドゥル...
1664年、軍団を増強して8万の総勢となったペルシア軍は、再...
Mohammad Ali帝はアルジェリアに宣戦布告し、オスマン帝国...
今回の目的はアルジェリアからエジプト地方を奪還する事と...
ペルシアのイスラム世界での急速な拡大の結果、悪評が高く...
まずはナジドから120Dの賠償金とバーレーン島を得て首都の...
オスマン軍は5000の兵にまで減少しており、領内で反乱が多...
クリミアはグルジア軍が半分落としたので、75Dの賠償金と属...
オスマンは全土を占領するが、属国化には120戦勝点必要だっ...
カラマンが多くの領土を取ったので、オスマンに残されたの...
|&ref(per9.png);|
アルジェリアにはペルシア軍は3個軍団で西へ西へと攻めてい...
アルジェリアの疲弊度は20%を超えている為、反乱が北アフリ...
アルジェリア領の真ん中にはチュニジアがあるが、ここは既...
ペルシア軍は西アフリカまで攻めていったが、疲弊度が3%に...
アレキサンドリアだけで58%も取ってしまったが、市場持ちの...
1670年、ボヘミアが再びペルシアに警告を発する。どちみち...
モスクワが再び周辺国すべてに攻められ崩壊状態になった。...
1671年、メッカ、メディナなどがペルシアの中核州となる。
またベドウィン文化をペルシアは継承し、アラビア半島の民...
1672年、オマーンはペルシアへ外交併合された。これでアラ...
10月、ボヘミアがまたもや宣戦布告してくる。第三次ボヘミ...
そしてこの戦いは、今までで最も激烈で苦しいものになった。
グルジア戦線で無数に沸いてくるボヘミア軍相手にペルシア...
2個軍団が全滅し、ペルシアで新たに騎兵のみの軍団の動員が...
グルジアを席捲したボヘミア軍は、ペルシア領内へ侵入し、...
さらに小アジアでは、同盟国カラマンの大半を征服。カラマ...
さらに1674年に入るとドゥルカディル君候国もペルシアに宣...
さらにモンゴルが警告を発する。明らかに戦争準備である。
戦争疲弊が5.7%に入り、グルジアで3個軍団がボヘミア軍によ...
しかし、このままずっと、じりじりと攻撃されていったら、...
敵がドゥルカディルのみとなったら、ペルシア軍の反撃が行...
まずオスマン全土を占領し、ブルサを差し出させて属国化。
次に疲れ切っているスペインに175Dと新大陸のルイジアナ独...
最後にドゥルカディルにAdanaの割譲と50Dの賠償金と属国化...
その後、帝国全土で反乱が多発し、各軍団は火消しに駆け回...
むしろ、グルジア、小アジア戦線から移動させるより、現地...
結果、反乱の嵐が静まった時には、帝国軍は12万の兵力に増...
Mohammad Ali帝は、ボヘミア領トレビゾンドと国境を接しな...
*Haidar I世の御代(統治8/軍事6/外交6 1679年-1715年) [#h2fb...
有能な新帝の治世、ペルシアはロシア諸侯との初の戦争を経...
戦争疲弊が回復するのを待ってから、Haidar帝はペルシアに...
ついでに小アジアに勢力を伸ばすべく、向こうが同盟破棄し...
カラマン攻めは速攻でほぼ全土占領する。しかしカラマン領...
次にモンゴルも速やかに落としていく。まだ要塞LV1の州ばか...
そこでカラマン攻めの4個軍団を救援へ向かわせる。
サライもモンゴル軍によって奪還されてしまう。
だが4個軍団の援軍が到着したら反撃を開始し、モンゴル軍を...
|&ref(per10.png);|
その頃、北米は東をフランス、中央をスペイン、西を英国が...
明国は南部をデリーに押さえられて、崩壊を続けている。ま...
1686年、新たにペルシア国内初の国立銀行が設立された。こ...
1689年、悪評も落ち着いてきたので、再びHaidar帝は戦争を...
今度はアルジェリアと、同盟国のイラク、シリア相手である...
ナジドはアルジェリアに外交併合されたので、これも取るこ...
シリア、イラクにはそれぞれ3個軍団、エジプト、アラビア半...
まずダマスカス、バグダッドを速攻で落としてシリア、イラ...
アルジェリアのエジプト駐屯軍を騎兵軍団で撃滅し、エジプ...
先行する騎兵軍団がSirtで西から襲来してくるアルジェリア...
だが順調に進むかと思われた戦争は、思わぬ齟齬に遭う。
1691年6月、ノブゴロドが宣戦布告。ビザンチン帝国も参戦。
そこでHaidar帝はナジドとエジプトの飛び地2州でアルジェリ...
これでペルシアの悪名が26.53/31.00に上昇する。ノガイが警...
しかしアラビア半島、イラク、パレスチナ、エジプトデルタ...
|&ref(per11.png);|
|CENTER:綺麗に統一されました|
すぐに北アフリカの軍団を今度はロシアへ向けて北上させて...
だが名将Hosayn Qazaiが活躍し、Tambowの戦いでノブゴロド...
ビザンチン軍は2個軍団で続々と小アジアのオスマン、ペルシ...
ペルシア本国では第13軍団の動員が開始された。
だが戦争疲弊が5%を超えているので、すぐにノブゴロドに75D...
そこで属国のクリミアに、同じTartar文化の旧モンゴル北部...
その頃、帝国のインフレは27%に達していた。歴代シャー達は...
1695年、ノブゴロド=ビザンチンがモスクワ公に宣戦布告し、...
1698年、悪評が高すぎて戦争の出来ない時期を利用して、Hai...
|&ref(per12.png);|
また外交官を二人雇って諸国の悪評を解除するように帝国は...
この時期、帝国は戦争ではなく外交によって拡大していった。
エジプトマムルーク朝のスルタンはペルシア帝国への併合に...
1707年、ベイルート、ユダヤ州が中核州化したのに伴い、ペ...
また1708年、Haidar I世は帝国改造の総仕上げとして、帝都...
|&ref(per13.png);|
|CENTER:新帝都イスファハーン|
後に「イスファハーンは世界の半分」と呼ばれるまでになる...
もっとも、これで安定度が-2に転落し、再び治安回復まで帝...
税収50%上昇するConstableが建造可能になったので、帝国各...
1711年、マスケット銃が西洋に遅れること100年でペルシアで...
1714年、ノガイからの警告も解除されたので、黒海ギリシア...
ペルシア地中海艦隊は黒海へ輸送してカッファへ上陸作戦を...
その勝報が続く最中、シャーは死去する。この偉大な改革帝...
終了行:
[[ペルシア建国記]]
*Mohammad Ali I世の御代(統治4/軍事8/外交7 1650年-1679年) ...
軍事、外交に才のあるMohammad Ali帝は、イスラム世界をペ...
5月、クリミア継承権戦争でシリアとアルジェリアが交戦し、...
ここでシリアから参戦要請が来たのでMohammad Ali帝は義理...
1653年、Mohammad Ali帝はエチオピアのアダルを攻撃した。...
今度の戦争では主にマムルークを落とすのが目的であった。...
モンゴルには3個軍団で北上させ、エジプトには2個軍団で侵...
モンゴル軍は意外とあっけなく倒せたので、3個軍団でがしが...
しかしマムルーク方面は意外としぶとく、ペルシア軍は攻略...
その間に、アルジェリアが市場のあるアレキサンドリアを奪...
戦力不足を感じた帝によって、新たに一個軍団が動員された...
1654年10月、ようやくエジプト全土を征服して、マムルーク...
1656年、再びイラクとナジドを攻めるべく、今度はMohammad ...
独立保護していたオスマン帝国、ナジド、イラク、シリアと...
ペルシア側についたのはグルジア、キヴァ、ナポリ、マムル...
敵側はシリアが総大将となった。
|&ref(per6.png);|
|CENTER:イスラム世界大戦争|
ペルシア軍はまずイラク、ナジド、シリアを中心に攻めてい...
しかしシリア軍の名将Al-Mu'azzam IV世によって、何度もペ...
また小アジアのオスマン領にはグルジア軍とともに1個軍団が...
オスマン軍はエジプトでマムルーク領の大半を征服していた...
次にイラクの2州全土を征服したので、首都のみに削る。これ...
1657年4月にはナジドも属領2州を陥落したので首都のみに削...
アイディン君候国は戦うこともなく降伏。属領となった。
こうして残る敵をシリアのみになると、ペルシア軍は総攻撃...
そしてペルシア軍が全土を占領して、シリアは首都以外のす...
|&ref(per7.png);|
その中には、預言者が昇天した街エルサレムも含まれている。
|&ref(per8.png);|
こうしてペルシアはアラビア半島、イラク、シリアに広大な...
BBRが21.59/32.00になったので、Mohammad Ali帝はしばらく...
また広大な新領土は各地に分散しており、ペルシア各軍団は...
政府技術がLV11になったので、ペルシア軍はEngineer Corps...
その頃、モスクワ大公国はボヘミアと黒海で何年も死闘を続...
だが、疲弊した大公国に対して、モンゴル、ノブゴロド=ビ...
デリー帝国の東征は台湾近海にまで達し、そしてついに日本...
また、この時期、アメリカ合衆国がフランスから独立した。...
1662年、オスマン帝国はスペインに首都を占領され、ドゥル...
1664年、軍団を増強して8万の総勢となったペルシア軍は、再...
Mohammad Ali帝はアルジェリアに宣戦布告し、オスマン帝国...
今回の目的はアルジェリアからエジプト地方を奪還する事と...
ペルシアのイスラム世界での急速な拡大の結果、悪評が高く...
まずはナジドから120Dの賠償金とバーレーン島を得て首都の...
オスマン軍は5000の兵にまで減少しており、領内で反乱が多...
クリミアはグルジア軍が半分落としたので、75Dの賠償金と属...
オスマンは全土を占領するが、属国化には120戦勝点必要だっ...
カラマンが多くの領土を取ったので、オスマンに残されたの...
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アルジェリアにはペルシア軍は3個軍団で西へ西へと攻めてい...
アルジェリアの疲弊度は20%を超えている為、反乱が北アフリ...
アルジェリア領の真ん中にはチュニジアがあるが、ここは既...
ペルシア軍は西アフリカまで攻めていったが、疲弊度が3%に...
アレキサンドリアだけで58%も取ってしまったが、市場持ちの...
1670年、ボヘミアが再びペルシアに警告を発する。どちみち...
モスクワが再び周辺国すべてに攻められ崩壊状態になった。...
1671年、メッカ、メディナなどがペルシアの中核州となる。
またベドウィン文化をペルシアは継承し、アラビア半島の民...
1672年、オマーンはペルシアへ外交併合された。これでアラ...
10月、ボヘミアがまたもや宣戦布告してくる。第三次ボヘミ...
そしてこの戦いは、今までで最も激烈で苦しいものになった。
グルジア戦線で無数に沸いてくるボヘミア軍相手にペルシア...
2個軍団が全滅し、ペルシアで新たに騎兵のみの軍団の動員が...
グルジアを席捲したボヘミア軍は、ペルシア領内へ侵入し、...
さらに小アジアでは、同盟国カラマンの大半を征服。カラマ...
さらに1674年に入るとドゥルカディル君候国もペルシアに宣...
さらにモンゴルが警告を発する。明らかに戦争準備である。
戦争疲弊が5.7%に入り、グルジアで3個軍団がボヘミア軍によ...
しかし、このままずっと、じりじりと攻撃されていったら、...
敵がドゥルカディルのみとなったら、ペルシア軍の反撃が行...
まずオスマン全土を占領し、ブルサを差し出させて属国化。
次に疲れ切っているスペインに175Dと新大陸のルイジアナ独...
最後にドゥルカディルにAdanaの割譲と50Dの賠償金と属国化...
その後、帝国全土で反乱が多発し、各軍団は火消しに駆け回...
むしろ、グルジア、小アジア戦線から移動させるより、現地...
結果、反乱の嵐が静まった時には、帝国軍は12万の兵力に増...
Mohammad Ali帝は、ボヘミア領トレビゾンドと国境を接しな...
*Haidar I世の御代(統治8/軍事6/外交6 1679年-1715年) [#h2fb...
有能な新帝の治世、ペルシアはロシア諸侯との初の戦争を経...
戦争疲弊が回復するのを待ってから、Haidar帝はペルシアに...
ついでに小アジアに勢力を伸ばすべく、向こうが同盟破棄し...
カラマン攻めは速攻でほぼ全土占領する。しかしカラマン領...
次にモンゴルも速やかに落としていく。まだ要塞LV1の州ばか...
そこでカラマン攻めの4個軍団を救援へ向かわせる。
サライもモンゴル軍によって奪還されてしまう。
だが4個軍団の援軍が到着したら反撃を開始し、モンゴル軍を...
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その頃、北米は東をフランス、中央をスペイン、西を英国が...
明国は南部をデリーに押さえられて、崩壊を続けている。ま...
1686年、新たにペルシア国内初の国立銀行が設立された。こ...
1689年、悪評も落ち着いてきたので、再びHaidar帝は戦争を...
今度はアルジェリアと、同盟国のイラク、シリア相手である...
ナジドはアルジェリアに外交併合されたので、これも取るこ...
シリア、イラクにはそれぞれ3個軍団、エジプト、アラビア半...
まずダマスカス、バグダッドを速攻で落としてシリア、イラ...
アルジェリアのエジプト駐屯軍を騎兵軍団で撃滅し、エジプ...
先行する騎兵軍団がSirtで西から襲来してくるアルジェリア...
だが順調に進むかと思われた戦争は、思わぬ齟齬に遭う。
1691年6月、ノブゴロドが宣戦布告。ビザンチン帝国も参戦。
そこでHaidar帝はナジドとエジプトの飛び地2州でアルジェリ...
これでペルシアの悪名が26.53/31.00に上昇する。ノガイが警...
しかしアラビア半島、イラク、パレスチナ、エジプトデルタ...
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|CENTER:綺麗に統一されました|
すぐに北アフリカの軍団を今度はロシアへ向けて北上させて...
だが名将Hosayn Qazaiが活躍し、Tambowの戦いでノブゴロド...
ビザンチン軍は2個軍団で続々と小アジアのオスマン、ペルシ...
ペルシア本国では第13軍団の動員が開始された。
だが戦争疲弊が5%を超えているので、すぐにノブゴロドに75D...
そこで属国のクリミアに、同じTartar文化の旧モンゴル北部...
その頃、帝国のインフレは27%に達していた。歴代シャー達は...
1695年、ノブゴロド=ビザンチンがモスクワ公に宣戦布告し、...
1698年、悪評が高すぎて戦争の出来ない時期を利用して、Hai...
|&ref(per12.png);|
また外交官を二人雇って諸国の悪評を解除するように帝国は...
この時期、帝国は戦争ではなく外交によって拡大していった。
エジプトマムルーク朝のスルタンはペルシア帝国への併合に...
1707年、ベイルート、ユダヤ州が中核州化したのに伴い、ペ...
また1708年、Haidar I世は帝国改造の総仕上げとして、帝都...
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|CENTER:新帝都イスファハーン|
後に「イスファハーンは世界の半分」と呼ばれるまでになる...
もっとも、これで安定度が-2に転落し、再び治安回復まで帝...
税収50%上昇するConstableが建造可能になったので、帝国各...
1711年、マスケット銃が西洋に遅れること100年でペルシアで...
1714年、ノガイからの警告も解除されたので、黒海ギリシア...
ペルシア地中海艦隊は黒海へ輸送してカッファへ上陸作戦を...
その勝報が続く最中、シャーは死去する。この偉大な改革帝...
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