ペルシア建国記3 東方への拡張
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[[ペルシア建国記]]
* Jahan Shah II世の御代(統治7/軍事3/外交5 1480年-1506年) ...
Jahan Shah II世の即位は、内戦の流血ともに始まった。
8000の対立首長反乱軍がアゼルバイジャンで蜂起し、そして...
そして2年間、すべての州の反乱率が+10%となり、黒羊朝は...
|&ref(qara12.png);|
|CENTER:最初の黒羊朝の内戦|
南方の反乱は比較的楽に片付いたが、北方の叛軍には敗退し...
ここで反乱成功させたらナショナリズムが10年延長される。...
そしてもっとも危険なアゼルバイジャンの僭称者反乱に対し...
あとは領内を逃げ回る反乱軍を個別に追撃、撃破していく。
Hamadanでの最後の反乱軍に対しては、イラク軍の援軍ととも...
だが、1482年にGilanでIskandel II世を自称する反乱軍が出...
結局、7月になって、ようやくすべての反乱は終熄したのだっ...
黒羊朝は、このような継承危機内戦を、これから首長が代わ...
オマーンが同盟の使者を送ってきたのでJahan Shahは応諾し...
そしてモンゴルがノブゴロド・ビザンチン帝国に戦争をした...
1483年、さらにノガイ・キヴァもモンゴルに侵攻して義理参...
それからチャガタイ汗国に明が宣戦布告したらモンゴルも参...
モンゴルは、まずノブゴロドに対して、Zaporozhieを独立さ...
こうしてモンゴル帝国は崩壊していった。
この戦いでのハンガリーの躍進が目立つ。さっそくハンガリ...
1493年、Jahan Shahは国庫に金が無くなったのを知り、恒例...
ついでにペルシアを滅ぼす準備として首都以外の州をすべて...
しかし、ペルシアに直接攻撃したら独立保証しているホラサ...
同盟国のモンゴル、キヴァ、オマーンも参戦した。もっとも...
1495年、1個軍団で延々と往復ビンタを続けた結果、北方領...
1496年3月、ホルムズ陥落。ペルシアに首都以外の3州を割譲...
同盟主のデリーとは直接戦うこともなく白紙講和した。
すぐに北東の新領土のGundanをキヴァに無償売却。あとは、...
中核州でない州をこれだけ保有するのは危険だが、わざわざ...
|&ref(qara13.png);|
|CENTER:第三次ペルシア遠征後|
1499年、モンゴルがノガイに侵攻。しかし、参戦したらキヴ...
東方では、バルチスタンの真ん中にドゥラニ国が誕生し、バ...
「介入したいところだが……新領土が中核州になるまで、更なる...
首長は諦めた。部族国家だと、なかなか上手く領土拡大でき...
1504年、ついにバルチスタン全土はドゥラニ軍に占領され併...
そしてペルシアはデリーの属国となった。これでは戦争をし...
もっとも、彼にはその時間がもう無かった。
1506年、Jahan Shah II世は崩御した。この首長の御代、黒羊...
* Iskander II世の御代(統治5/軍事7/外交5 1506年-1544年) [#...
恒例の継承危機の内戦をIskander II世は、上手く捌いていっ...
1507年3月、すべての反乱は収束。Iskander II世の統治が始...
Iskandelは長期に渡って黒羊朝を統治する事となった。この...
だがそれは、苦しい闘いの連続でもあった。
1508年、ペルシアがついにデリーに併合された。
これで再び黒羊朝のNational Decisionsにペルシア化が提案...
小アジアではオスマン帝国が復活し、カラマンを滅ぼして勢...
1512年、新領土の3州が中核化した。これでまだ中核州でない...
Iskanderは再び戦争の準備に入った。
次はペルシア必須州Makranを得るべく、ドゥラニに戦争をし...
だが、どのドゥラニの同盟国を選んでも、デリーと戦う事に...
1514年9月、Iskanderはグジャラートに宣戦布告し、ドゥラニ...
ドゥラニからMakranを得たら、すぐにインド勢力と講和する...
まず全軍2万でデリー領ホルムズを威勢良く落としてから、Ma...
そして講和が検討されるが、まだドゥラニは受け入れないよ...
グジャラートもボロボロだったので、賠償金50Dで講和。チャ...
あとの敵はデリーのみだが、ホルムズは市場持なので60%は戦...
そしてホルムズで反乱が起きたので、反乱軍に占領させる。...
部族の危機に対してIskanderは自ら将軍となって親率し、軍...
デリーとは時間切れで白紙講和となった。
1518年8月、ホルムズと黒羊朝軍が包囲中のLuristanが同時に...
もっともすぐに両州とも奪回し、ペルシアを併合。
新領土のホルムズにもシーア派宣教師が送られる。だが成功...
またこの時、黒羊朝内でJizya税の導入も行われた。反乱率が...
|&ref(qara14.png);|
|CENTER:1520年の世界|
その頃、他の世界では――
カスティーリャはスペインへと成長し、ポルトガルとともに...
北欧ではなんとフィンランドがスウェーデンを併合した。ま...
ハンガリーは衰退し、ボヘミアが拡張してきている。
東欧ではリトアニアが滅亡し、モスクワ公とノブゴロド公が...
明帝国は南部の反乱が朝鮮に領土を与えている。しかしまだ...
1523年、黒羊朝はオマーンとの同盟を破棄し、代わりにティ...
そして1524年1月、Iskanderは最後のペルシア化必須州を持つ...
同盟国のモンゴル、キヴァ、ティムールも参戦。一斉にホラ...
しかし同時に西方で反乱が起き、1個軍団はそちらへ移動さ...
突撃に失敗し、なかなか落とせなかったものの、Khurasanの...
そして、講和で首都周辺を割譲させる。これでホラサンが首...
|&ref(qara15.png);|
途中、モスクワ大公国がモンゴルに宣戦布告したのでIskande...
しかしデリーとはなかなか白紙講和できない。さらに2州で反...
そのうちに、南東よりカンデシュ軍が侵攻してきた。だが黒...
Iskanderは賠償金を支払っても講和しようとするが、足元を...
黒羊朝軍は反乱軍への速急な対処を諦め、まずカンデシュ軍...
だがデリー軍は1万を超えていたので、黒羊朝軍は敗退してし...
ここでIskanderはデリーと講和する事にした。金がもったい...
すぐに新領土のHeart,Sistanをキヴァに無償提供。必要なの...
1527年9月、アルメニアとの同盟を破棄してから宣戦布告。ビ...
アルメニアは速攻で2万の全軍の突撃で陥落。再属国化と50D...
しかしビザンチン帝国がしぶとく抵抗する。黒海を渡って何...
黒羊朝の東部では反乱軍が抵抗し、第1軍団はこちらで戦い続...
1532年、ビザンチン帝国が主力を上陸させてきたので、1個軍...
さらにIskanderは凶報を聞くこととなった。黒羊朝のホラサ...
平時でも黒羊朝は厳しい状況であった。1536年、スンニ派の...
結果、ホルムズは陥落してシーア派宣教師が皆殺しに遭う。
なんとか三度目の攻撃で落としたが、Iskanderはもう成功率3...
もっと黒羊朝の軍備に余裕ができるまで、宣教師を送るのは...
1538年6月、デリー帝国は南インドのヒンドゥー諸国へと侵攻...
同盟国のモンゴル、キヴァも参戦。
開戦と同時にMakranで反乱が起きたので、第1軍団はそちらへ...
順調に首都を落とす。モンゴルが攻めたカザンは賠償金50Dを...
ホラサン東部に向かうとデリー軍と遭遇。しかし少数だった...
だがGilanで反乱が起きる。さらにMakranでも再度の反乱。ギ...
だがGilanにはわずか60日で陥落したという凶報を聞く。その...
また、国内で第三軍団の動員を開始するようIskandelは将軍...
そして東部よりデリー軍2万がホラサンへ近づいているという...
|&ref(qara16.png);|
|CENTER:第二次ホラサン遠征後。デリーと国境を接してしまう...
この時、シリアも同盟の使者を送ってきたので応諾する。
さらに1540年3月、黒羊朝の弱体を見たドゥラニが宣戦布告し...
そこで、アルメニアの属国解除を条件にIskandelはデリー皇...
カンデシュ、グジャラートは最初から疲弊していたので、賠...
これでドゥラニのみとなったので、Iskandelは懲罰を決意し...
国内ではGilanの反乱軍と戦うため各州で兵を動員していたが...
だがここで、新たな戦争が開始された。モンゴルが継承権戦...
1541年10月、ドゥラニ全土の占領に成功したので賠償金50Dと...
そしてカザクから白紙講和の使者が来たのでIskandelは応諾...
ホラサンは、カザクの属国+同盟となったようだ。これで以...
1544年4月、Iskander II世崩御。ペルシア、ホラサンを征伐...
そして継承危機の内戦が開始された。黒羊朝史上、最も過酷...
終了行:
[[ペルシア建国記]]
* Jahan Shah II世の御代(統治7/軍事3/外交5 1480年-1506年) ...
Jahan Shah II世の即位は、内戦の流血ともに始まった。
8000の対立首長反乱軍がアゼルバイジャンで蜂起し、そして...
そして2年間、すべての州の反乱率が+10%となり、黒羊朝は...
|&ref(qara12.png);|
|CENTER:最初の黒羊朝の内戦|
南方の反乱は比較的楽に片付いたが、北方の叛軍には敗退し...
ここで反乱成功させたらナショナリズムが10年延長される。...
そしてもっとも危険なアゼルバイジャンの僭称者反乱に対し...
あとは領内を逃げ回る反乱軍を個別に追撃、撃破していく。
Hamadanでの最後の反乱軍に対しては、イラク軍の援軍ととも...
だが、1482年にGilanでIskandel II世を自称する反乱軍が出...
結局、7月になって、ようやくすべての反乱は終熄したのだっ...
黒羊朝は、このような継承危機内戦を、これから首長が代わ...
オマーンが同盟の使者を送ってきたのでJahan Shahは応諾し...
そしてモンゴルがノブゴロド・ビザンチン帝国に戦争をした...
1483年、さらにノガイ・キヴァもモンゴルに侵攻して義理参...
それからチャガタイ汗国に明が宣戦布告したらモンゴルも参...
モンゴルは、まずノブゴロドに対して、Zaporozhieを独立さ...
こうしてモンゴル帝国は崩壊していった。
この戦いでのハンガリーの躍進が目立つ。さっそくハンガリ...
1493年、Jahan Shahは国庫に金が無くなったのを知り、恒例...
ついでにペルシアを滅ぼす準備として首都以外の州をすべて...
しかし、ペルシアに直接攻撃したら独立保証しているホラサ...
同盟国のモンゴル、キヴァ、オマーンも参戦した。もっとも...
1495年、1個軍団で延々と往復ビンタを続けた結果、北方領...
1496年3月、ホルムズ陥落。ペルシアに首都以外の3州を割譲...
同盟主のデリーとは直接戦うこともなく白紙講和した。
すぐに北東の新領土のGundanをキヴァに無償売却。あとは、...
中核州でない州をこれだけ保有するのは危険だが、わざわざ...
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|CENTER:第三次ペルシア遠征後|
1499年、モンゴルがノガイに侵攻。しかし、参戦したらキヴ...
東方では、バルチスタンの真ん中にドゥラニ国が誕生し、バ...
「介入したいところだが……新領土が中核州になるまで、更なる...
首長は諦めた。部族国家だと、なかなか上手く領土拡大でき...
1504年、ついにバルチスタン全土はドゥラニ軍に占領され併...
そしてペルシアはデリーの属国となった。これでは戦争をし...
もっとも、彼にはその時間がもう無かった。
1506年、Jahan Shah II世は崩御した。この首長の御代、黒羊...
* Iskander II世の御代(統治5/軍事7/外交5 1506年-1544年) [#...
恒例の継承危機の内戦をIskander II世は、上手く捌いていっ...
1507年3月、すべての反乱は収束。Iskander II世の統治が始...
Iskandelは長期に渡って黒羊朝を統治する事となった。この...
だがそれは、苦しい闘いの連続でもあった。
1508年、ペルシアがついにデリーに併合された。
これで再び黒羊朝のNational Decisionsにペルシア化が提案...
小アジアではオスマン帝国が復活し、カラマンを滅ぼして勢...
1512年、新領土の3州が中核化した。これでまだ中核州でない...
Iskanderは再び戦争の準備に入った。
次はペルシア必須州Makranを得るべく、ドゥラニに戦争をし...
だが、どのドゥラニの同盟国を選んでも、デリーと戦う事に...
1514年9月、Iskanderはグジャラートに宣戦布告し、ドゥラニ...
ドゥラニからMakranを得たら、すぐにインド勢力と講和する...
まず全軍2万でデリー領ホルムズを威勢良く落としてから、Ma...
そして講和が検討されるが、まだドゥラニは受け入れないよ...
グジャラートもボロボロだったので、賠償金50Dで講和。チャ...
あとの敵はデリーのみだが、ホルムズは市場持なので60%は戦...
そしてホルムズで反乱が起きたので、反乱軍に占領させる。...
部族の危機に対してIskanderは自ら将軍となって親率し、軍...
デリーとは時間切れで白紙講和となった。
1518年8月、ホルムズと黒羊朝軍が包囲中のLuristanが同時に...
もっともすぐに両州とも奪回し、ペルシアを併合。
新領土のホルムズにもシーア派宣教師が送られる。だが成功...
またこの時、黒羊朝内でJizya税の導入も行われた。反乱率が...
|&ref(qara14.png);|
|CENTER:1520年の世界|
その頃、他の世界では――
カスティーリャはスペインへと成長し、ポルトガルとともに...
北欧ではなんとフィンランドがスウェーデンを併合した。ま...
ハンガリーは衰退し、ボヘミアが拡張してきている。
東欧ではリトアニアが滅亡し、モスクワ公とノブゴロド公が...
明帝国は南部の反乱が朝鮮に領土を与えている。しかしまだ...
1523年、黒羊朝はオマーンとの同盟を破棄し、代わりにティ...
そして1524年1月、Iskanderは最後のペルシア化必須州を持つ...
同盟国のモンゴル、キヴァ、ティムールも参戦。一斉にホラ...
しかし同時に西方で反乱が起き、1個軍団はそちらへ移動さ...
突撃に失敗し、なかなか落とせなかったものの、Khurasanの...
そして、講和で首都周辺を割譲させる。これでホラサンが首...
|&ref(qara15.png);|
途中、モスクワ大公国がモンゴルに宣戦布告したのでIskande...
しかしデリーとはなかなか白紙講和できない。さらに2州で反...
そのうちに、南東よりカンデシュ軍が侵攻してきた。だが黒...
Iskanderは賠償金を支払っても講和しようとするが、足元を...
黒羊朝軍は反乱軍への速急な対処を諦め、まずカンデシュ軍...
だがデリー軍は1万を超えていたので、黒羊朝軍は敗退してし...
ここでIskanderはデリーと講和する事にした。金がもったい...
すぐに新領土のHeart,Sistanをキヴァに無償提供。必要なの...
1527年9月、アルメニアとの同盟を破棄してから宣戦布告。ビ...
アルメニアは速攻で2万の全軍の突撃で陥落。再属国化と50D...
しかしビザンチン帝国がしぶとく抵抗する。黒海を渡って何...
黒羊朝の東部では反乱軍が抵抗し、第1軍団はこちらで戦い続...
1532年、ビザンチン帝国が主力を上陸させてきたので、1個軍...
さらにIskanderは凶報を聞くこととなった。黒羊朝のホラサ...
平時でも黒羊朝は厳しい状況であった。1536年、スンニ派の...
結果、ホルムズは陥落してシーア派宣教師が皆殺しに遭う。
なんとか三度目の攻撃で落としたが、Iskanderはもう成功率3...
もっと黒羊朝の軍備に余裕ができるまで、宣教師を送るのは...
1538年6月、デリー帝国は南インドのヒンドゥー諸国へと侵攻...
同盟国のモンゴル、キヴァも参戦。
開戦と同時にMakranで反乱が起きたので、第1軍団はそちらへ...
順調に首都を落とす。モンゴルが攻めたカザンは賠償金50Dを...
ホラサン東部に向かうとデリー軍と遭遇。しかし少数だった...
だがGilanで反乱が起きる。さらにMakranでも再度の反乱。ギ...
だがGilanにはわずか60日で陥落したという凶報を聞く。その...
また、国内で第三軍団の動員を開始するようIskandelは将軍...
そして東部よりデリー軍2万がホラサンへ近づいているという...
|&ref(qara16.png);|
|CENTER:第二次ホラサン遠征後。デリーと国境を接してしまう...
この時、シリアも同盟の使者を送ってきたので応諾する。
さらに1540年3月、黒羊朝の弱体を見たドゥラニが宣戦布告し...
そこで、アルメニアの属国解除を条件にIskandelはデリー皇...
カンデシュ、グジャラートは最初から疲弊していたので、賠...
これでドゥラニのみとなったので、Iskandelは懲罰を決意し...
国内ではGilanの反乱軍と戦うため各州で兵を動員していたが...
だがここで、新たな戦争が開始された。モンゴルが継承権戦...
1541年10月、ドゥラニ全土の占領に成功したので賠償金50Dと...
そしてカザクから白紙講和の使者が来たのでIskandelは応諾...
ホラサンは、カザクの属国+同盟となったようだ。これで以...
1544年4月、Iskander II世崩御。ペルシア、ホラサンを征伐...
そして継承危機の内戦が開始された。黒羊朝史上、最も過酷...
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