ペルシア建国記2 緩やかな拡大
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[[ペルシア建国記]]
* Jahan Shah I世の御代(統治8/軍事7/外交5 1420年-1433年) [...
父の崩御によって新たな黒羊朝の首長となったJahan Shahは...
だがこの時、イラクが同盟を破棄してしまった。
黒羊朝軍の果敢な突撃によってトレビゾンドはすぐに陥落し...
さらにハンガリーとも戦争となるが、お互いに打つ手がない...
その間、黒羊朝はモンゴル、キヴァとも同盟を結んだ。北方...
やがてハンガリーが白紙講和の使者を送ってくるようになっ...
これで経済的に一息ついた黒羊朝は、軍備を増強し常備軍を1...
それぞれ国の南北に両軍団は配置され、反乱に即座に対処す...
1428年6月、マムルーク帝国が小アジアのドゥルカディル君候...
が、マムルークとの同盟は堅持すべきと考えた首長は参戦を...
第1軍団は西のティムール領へ侵攻し、少数の守備軍を撃破...
一方この時、欧州側のオスマン領がすべて反乱軍に押さえら...
こうしてビザンチン帝国が復活した。ここまでトルコが弱体...
|&ref(qara6.png);|
|CENTER:ビザンチン帝国の復活|
黒羊朝軍はイラクとティムール西方領すべてを占領するが、...
そうしているうちに、1430年3月、マムルークは講和して、黒...
さらに直後、首長は衝撃を受ける事になる。マムルークは黒...
ついでに、というべきか、黒羊朝もオスマン帝国との同盟を...
1431年2月にホラサンから同盟の使者が来たので応諾。ペルシ...
これで現在の同盟国はグルジア、モンゴル、キヴァ、ホラサ...
Jahan Shah首長はイラクとも仲直りの婚姻を結んだ。
そして1433年6月、Jahan Shah I世は、その早世を惜しまれな...
* Qara Yusuf I世の御代(統治5/軍事3/外交7 1433年-1437年) [...
Qara Yusuf I世(実際はII世?)の御代で唯一歴史に知られ...
この時代、黒羊朝の商業は低調であった。通商禁止されたア...
* Hassan' Ali I世の御代(統治7/軍事6/外交8 1437年-1460年) ...
Hassan' Ali首長は有能な統治者であるとともに、果敢な戦士...
1439年11月、モンゴルがジェノアへ宣戦したので、黒羊朝も...
1440年3月、西ではマムルーク=イラク戦争が終結し、イラク...
Hassan' Ali首長も、いずれ拡大を続けるマムルークが黒羊朝...
だが、1446年、マムルーク全土で反乱が勃発し、帝国の崩壊...
1450年、国庫に金が無くなったのを知ったHassan' Ali首長は...
1454年、マムルーク崩壊によって、北シリアの5州が「シリ...
さらにイラクが失った領土を取り戻し、滅びたエチオピアが...
マムルークは再び同盟の使者を送ってきたのでHassan' Ali首...
1459年8月、新領土のAjamとFarsが中核州に昇格した。
これによって、ようやく黒羊朝は次の侵攻が可能となった。H...
キヴァ、ホラサン、モンゴルも参戦。一斉にペルシア領へ侵...
ペルシアはマムルークとも同盟を結んでいたので、こちらと...
Farsがペルシア軍の突撃によって陥落させられた報を聞いたH...
|&ref(qara7.png);|
|CENTER:Ajam会戦、黒羊朝軍とペルシア軍の決戦|
会戦は黒羊朝軍の圧勝で終わった。
|&ref(qara8.png);|
そのまま追撃とともにFarsも解放し、主力軍は東方ペルシア...
しかしHassan' Ali首長は、Laristan州の包囲で突撃軍の先陣...
* Iskander I世の御代(統治7/軍事7/外交3 1460年-1480年) [#t...
ペルシアとの戦争中に先の首長が亡くなる事態により、Iskan...
途中、キヴァ、ホラサン、モンゴルが白紙講和で脱落する中...
|&ref(qara9.png);|
これによって黒羊朝の領土数は12となる。そして以後の歴代...
新領土のKermanはスンニ派だったので宣教師が送り込まれ改...
まだマムルーク、ヒジャーズと戦争が続いていたので、Iskan...
|&ref(qara10.png);|
|CENTER:1465年の世界|
さて、その頃、世界はどのようになっているか見てみよう。
この時代、珍しくハンガリーが強国となっている。オスマン...
またカスティーリャがアラゴンを外交併合している。
北アフリカではアルジェリアがほぼ統一しつつあった。
北インドではデリーが勢力を確立しつつある。
1469年、カザフが黒羊朝に宣戦布告した。さらにチャガタイ...
領土が繋がっているのは、オスマン帝国のみなので、黒羊朝...
しかし途中でHamadanで反乱が起きたので1個軍団はそちらへ...
チャガタイ、カンダル君候国との白紙講和は成功したので、...
1470年、反撃の体勢が整うと、オスマン軍を撃破し、東方離...
そして講和で2州を割譲させる。これでオスマンは西方のBir...
それから、同盟主のカザフから120Dの賠償金で首長は講和し...
すぐに、Iskander I世は、新獲得領の2州を属国のトレビゾ...
同盟国のモンゴルはこの時期、継承危機によって、新領土7...
しかし、どうやら対処できそうだ。
また、黒羊朝のインフレ率は5.7%。生産力が低いので、戦争...
1473年、モンゴルが再び黒海領ジェノアを求めて宣戦布告し...
その間、Iskander I世は中核州となったFars港で、ガレー船3...
マムルークはシリア=アルジェリア連合によって定期的に叩...
1476年、ジェノアは黒海領をすべてモンゴルに手放し、この...
1478年、ホラサンがイラク継承権戦争を開始したが、イラク...
バルチスタンもホラサンへ宣戦布告しキヴァとともに侵攻開...
1480年、ホラサンは、キヴァへ1州割譲し、バルチスタンか...
10月、Iskandel I世族長が崩御し、Jahan Shah II世が即位。
そして、最初の部族継承危機の内戦が始まった。
|&ref(qara11.png);|
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[[ペルシア建国記]]
* Jahan Shah I世の御代(統治8/軍事7/外交5 1420年-1433年) [...
父の崩御によって新たな黒羊朝の首長となったJahan Shahは...
だがこの時、イラクが同盟を破棄してしまった。
黒羊朝軍の果敢な突撃によってトレビゾンドはすぐに陥落し...
さらにハンガリーとも戦争となるが、お互いに打つ手がない...
その間、黒羊朝はモンゴル、キヴァとも同盟を結んだ。北方...
やがてハンガリーが白紙講和の使者を送ってくるようになっ...
これで経済的に一息ついた黒羊朝は、軍備を増強し常備軍を1...
それぞれ国の南北に両軍団は配置され、反乱に即座に対処す...
1428年6月、マムルーク帝国が小アジアのドゥルカディル君候...
が、マムルークとの同盟は堅持すべきと考えた首長は参戦を...
第1軍団は西のティムール領へ侵攻し、少数の守備軍を撃破...
一方この時、欧州側のオスマン領がすべて反乱軍に押さえら...
こうしてビザンチン帝国が復活した。ここまでトルコが弱体...
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|CENTER:ビザンチン帝国の復活|
黒羊朝軍はイラクとティムール西方領すべてを占領するが、...
そうしているうちに、1430年3月、マムルークは講和して、黒...
さらに直後、首長は衝撃を受ける事になる。マムルークは黒...
ついでに、というべきか、黒羊朝もオスマン帝国との同盟を...
1431年2月にホラサンから同盟の使者が来たので応諾。ペルシ...
これで現在の同盟国はグルジア、モンゴル、キヴァ、ホラサ...
Jahan Shah首長はイラクとも仲直りの婚姻を結んだ。
そして1433年6月、Jahan Shah I世は、その早世を惜しまれな...
* Qara Yusuf I世の御代(統治5/軍事3/外交7 1433年-1437年) [...
Qara Yusuf I世(実際はII世?)の御代で唯一歴史に知られ...
この時代、黒羊朝の商業は低調であった。通商禁止されたア...
* Hassan' Ali I世の御代(統治7/軍事6/外交8 1437年-1460年) ...
Hassan' Ali首長は有能な統治者であるとともに、果敢な戦士...
1439年11月、モンゴルがジェノアへ宣戦したので、黒羊朝も...
1440年3月、西ではマムルーク=イラク戦争が終結し、イラク...
Hassan' Ali首長も、いずれ拡大を続けるマムルークが黒羊朝...
だが、1446年、マムルーク全土で反乱が勃発し、帝国の崩壊...
1450年、国庫に金が無くなったのを知ったHassan' Ali首長は...
1454年、マムルーク崩壊によって、北シリアの5州が「シリ...
さらにイラクが失った領土を取り戻し、滅びたエチオピアが...
マムルークは再び同盟の使者を送ってきたのでHassan' Ali首...
1459年8月、新領土のAjamとFarsが中核州に昇格した。
これによって、ようやく黒羊朝は次の侵攻が可能となった。H...
キヴァ、ホラサン、モンゴルも参戦。一斉にペルシア領へ侵...
ペルシアはマムルークとも同盟を結んでいたので、こちらと...
Farsがペルシア軍の突撃によって陥落させられた報を聞いたH...
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|CENTER:Ajam会戦、黒羊朝軍とペルシア軍の決戦|
会戦は黒羊朝軍の圧勝で終わった。
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そのまま追撃とともにFarsも解放し、主力軍は東方ペルシア...
しかしHassan' Ali首長は、Laristan州の包囲で突撃軍の先陣...
* Iskander I世の御代(統治7/軍事7/外交3 1460年-1480年) [#t...
ペルシアとの戦争中に先の首長が亡くなる事態により、Iskan...
途中、キヴァ、ホラサン、モンゴルが白紙講和で脱落する中...
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これによって黒羊朝の領土数は12となる。そして以後の歴代...
新領土のKermanはスンニ派だったので宣教師が送り込まれ改...
まだマムルーク、ヒジャーズと戦争が続いていたので、Iskan...
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|CENTER:1465年の世界|
さて、その頃、世界はどのようになっているか見てみよう。
この時代、珍しくハンガリーが強国となっている。オスマン...
またカスティーリャがアラゴンを外交併合している。
北アフリカではアルジェリアがほぼ統一しつつあった。
北インドではデリーが勢力を確立しつつある。
1469年、カザフが黒羊朝に宣戦布告した。さらにチャガタイ...
領土が繋がっているのは、オスマン帝国のみなので、黒羊朝...
しかし途中でHamadanで反乱が起きたので1個軍団はそちらへ...
チャガタイ、カンダル君候国との白紙講和は成功したので、...
1470年、反撃の体勢が整うと、オスマン軍を撃破し、東方離...
そして講和で2州を割譲させる。これでオスマンは西方のBir...
それから、同盟主のカザフから120Dの賠償金で首長は講和し...
すぐに、Iskander I世は、新獲得領の2州を属国のトレビゾ...
同盟国のモンゴルはこの時期、継承危機によって、新領土7...
しかし、どうやら対処できそうだ。
また、黒羊朝のインフレ率は5.7%。生産力が低いので、戦争...
1473年、モンゴルが再び黒海領ジェノアを求めて宣戦布告し...
その間、Iskander I世は中核州となったFars港で、ガレー船3...
マムルークはシリア=アルジェリア連合によって定期的に叩...
1476年、ジェノアは黒海領をすべてモンゴルに手放し、この...
1478年、ホラサンがイラク継承権戦争を開始したが、イラク...
バルチスタンもホラサンへ宣戦布告しキヴァとともに侵攻開...
1480年、ホラサンは、キヴァへ1州割譲し、バルチスタンか...
10月、Iskandel I世族長が崩御し、Jahan Shah II世が即位。
そして、最初の部族継承危機の内戦が始まった。
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