プレイレポ/ボルジアの血族/第三章 ウルビーノ公フェデリーゴの時代
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[[プレイレポ/ボルジアの血族]]
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#ref(Buch2-318.jpg,nolink)
伝 フェデリーゴの肖像画
**小話:ルクレツィアの死 [#j42196aa]
1535年夏。
この頃、前摂政ルクレツィアは流行り病を得て表に出なくなる。
床に伏しがちとなり、
顔色はそれ以前の美しい白肌と比べても一層白く、
透き通る程になっていた。
熱に苦しみ、また咳き込みがちではあったが、
不思議と当人の心持ちは明るかったようだ。
うわ言も苦しみを訴える内容のものではなく、
「もうすぐ、もうすぐまた会える・・・・・・」と
喜びの色のあるものだったらしい。
その死の直前、フェデリーゴ公が彼女の元を訪れて人払いをし、
長い時間語り明かしたとの記録が残る。
その内容については同時代ですら不確かな推測に依るしかなく、
今となっては完全に失われてしまっている・・・・・・
**第一節 [#qa71ffbf]
#ref(コンドゥルメ元帥.jpg,nolink,right,around)
親政の開始後、フェデリーゴが直ちに始めたのは軍制の改革で...
フランス-アラゴン両国によるナポリの再征服時、壊乱するナポ...
大いにフェランテ王の延命に貢献した後、その罪状によって追...
ナポリの有力貴族コンドゥルメ家の当主、
フランチェスコ・マリーア・コンドゥルメを((ゲーム内では、...
外征に耐えうる軍の構築を模索する。
コンドゥルメ元帥晩年の肖像
それまでのウルビーノ軍の編制は、ヴェローナの戦い((第一章...
野戦砲――支配下にあったフェラーラの工廠で盛んに製造されて...
それを槍兵や銃兵が守護するという、さながら移動式の要塞の...
#ref(BattleOfHeiligerlee.jpg,nolink)
この編制は防御力が極めて高い特徴を持ち、
同数か、やや勝る程度の敵に対しては殆ど被害を出さずに退け...
野戦後、都市城塞の包囲の段階になると大砲は絶大な効力を発...
包囲戦を主とするイタリア内での戦争においては大変有効な編...
**第二節 [#x32a8f51]
一方、コンドゥルメ元帥の提言は機動力重視であった。
元帥がナポリ戦争で圧倒的に数において勝る敵軍をしばしば撃...
迅速に移動し、敵の防備が薄い箇所に部隊を集中させて
初撃で相手の指揮能力に損害を与え、
追撃戦にて戦果を拡大するという戦術によるものであったらし...
先の編制は防御力こそ高いものの機動力には乏しく、
相手が敢闘精神に欠ける傭兵主体であったこれまでは
防御して居れば相手が攻めあぐね、砲の効果もあり敵を撤退さ...
より強い敵軍と戦うにあたってはそうは行かない、と言うので...
この提言に、当時、急速にマスケット銃が普及装備となって
銃を主体とした戦術が現実味を帯びたことが加わり、
フェデリーゴはそれまでのものとは全く異なる編制を考案する。
元来は歩兵中の7割程を占めた防御用の槍兵の規模を
5割弱程度にまで縮小。
その主任務を敵軍が崩壊した後の追撃用と定めた。
残りを火器で武装した銃兵とし、
槍兵と銃兵の比率を逆転したのである。
また、鈍重な砲兵の随行は取りやめとし、
状況に合わせて機敏に展開可能なように
移動速度に重点を置いた軽装が主体となった。
#ref(隊列.png,nolink,60%)
#ref(マスケット銃兵.jpg,nolink,right,around)
2通りの隊列の図。槍兵が最外部を取り囲んでいた以前の構造...
防御力は下がるものの移動の自由度を獲得した。
また、フェデリーゴは、銃兵に単に斉射させるだけであったの...
背面行進と呼ばれる戦術を編み出した。
まず、前列の兵が斉射した後、
その兵はその場に留まって装填するのではなく、
最後尾に移動してから装填を行う。
その間に後列の兵が進み出て斉射して交代、
また次の列が……と繰り返すのである。
これにより間断なく銃撃を行うことが可能になった。
フェデリーゴ自身が頻繁に訓練に参加して兵に親しまれること...
このような部隊行動を行うための高い練度を成し遂げたとの逸...
マスケット銃兵の装填の様子。当時の銃の装填手順は、
発射→火薬の計量→弾丸の投入→柵杖による突固め→照準→発射、...
フェデリーゴの革新以前は密の高い弾幕を形成することは不可...
**第三節 [#f223d504]
兵の調練を終えた1542年春、
フェデリーゴは前年にフィレンツェがウルビーノの影響下を脱...
ヴェネツィアと同盟を結んだことを咎めるため、
フィレンツェ市を攻撃した。
これに対し、ヴェネツィアは直ちに援軍を派遣することを決定。
ヴェネツィア陸軍とウルビーノ陸軍との対決は不可避となった。
幾度かの小競り合いを経た後、ついに決戦の時が訪れる。
片や、ヴェネツィアは20年前の復讐戦として。
片や、ウルビーノはかつてと同じく敵を地に叩き伏せるために。
――両軍は戦場としてヴェローナを選んだ。
#ref(ヴェローナの戦い.jpg,nolink)
#ref(攻防.jpg,nolink,right,around)
ウルビーノ軍はフェデリーゴ公自身が総指揮。
ヴェネツィア軍は永年共和国に仕え、
対フランス戦役、対トルコ戦役等、
様々な戦場を渡り歩いた歴戦の軍人、
バルトロメオ・ダルビアーノが指揮を執った。
騎兵戦力において大幅に勝るヴェネツィア軍は
騎兵による突破を用いて序盤を優位に進めるも、
歩兵戦力は、数、練度ともに大幅にウルビーノ軍が上回ってい...
戦闘開始から数時間経過した後、
ヴェネツィア側の展開に伴って中央部が手薄になったのを
フェデリーゴは見逃さず、集中砲火を加える。
#ref(Bataille_d'Agnadel.jpg,nolink)
敵が火力に怯んだのを見て突撃を指示するフェデリーゴ
これに虚を衝かれたヴェネツィア歩兵の中央集団はたまらず隊...
突撃に対し無防備な本営を晒すこととなる。
#ref(The_Death_of_Gaston_de_Foix.jpg,nolink)
バルトロメオの死
間もなく、ウルビーノ軍の突撃の波は本営にまで達し、
バルトロメオ・ダルビアーノは戦死。
指揮官を討ち取られたことによりヴェネツィア軍全体が混乱、
士気を大幅に減じて撤退を始める。
以後の追撃戦における損害比は、
もはや戦闘と呼んで比べるべきものではなく、
むしろ狩りと呼ぶ方が適切な程であった。
この戦いはヴェネツィア共和国の没落を象徴する契機となり、
また、親政の開始から余り日を経て居らず、
対外的には全く能力を知られていなかった
フェデリーゴの威信を大きく高めることとなった。
#ref(フェデリーゴ.jpg,nolink,66%)
**第四節 [#db2ea50d]
#ref(カール五世騎馬像.jpg,nolink)
カール五世騎馬像
神聖ローマ皇帝、カール五世の生涯は信仰と共にあった。
・・・・・・すなわち、信仰の敵との闘いと。
彼が育ったネーデルラントは、
豊かな経済力と、洗練された文化を持つ先進地域であったが、
フランスと神聖ローマ帝国との境でもあった。
つまり、カトリックとルター派との争いの最前線だったのであ...
この地のカトリック教会は、フランスや北ドイツから送られて...
ルター派宣教師との接触が多かったことから、
プロテスタント側の宗教改革に刺激を受けて、
対抗宗教改革と呼ばれるカトリック内部からの教会刷新運動の...
#ref(Council_of_Trent.JPG,nolink)
トリアーの公会議。宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を...
カトリックの教義を再確認、プロテスタントとの妥協を拒絶し...
そんな中で育った彼は、自然、カトリックの教えを厳格に信奉...
長じてプロテスタントとの対決姿勢を明らかにした。
帝位に登った後は、ブランデンブルク選帝侯国、ボヘミア=ハン...
プロテスタント諸侯との絶え間ない争いを制し、帝国内部に秩...
こうして後顧の憂いをなくした1546年、ついにルター派の最大...
皇帝選挙での対立、反皇帝諸侯への援助等、事あるごとにハプ...
フランス王を討ち果たすための大軍勢を挙げる。
#ref(Battle_of_Pavia.jpg,nolink)
しかし彼には一つだけ弱みがあった。長年皇帝として支配して...
彼には曽祖父以前、皇帝に本来必須であった資格、「教皇によ...
フランスとの全面戦争に際し、これを自身とフランス王との私...
カトリック対プロテスタントの聖戦とすることを望んだ彼は
教皇の承認を求めて、まず軍勢をイタリアに差し向けた。
すなわち、攻略目標は、教皇の座すローマまでの行く手を阻む、
ウルビーノ公フェデリーゴである。
#ref(Austria declared war.jpg,nolink,80%)
**第五節 [#h11bb8cd]
#ref(モーリッツ.jpg,nolink,right,around,66%)
南ドイツに集結していた皇帝軍は8万超、
ウルビーノは、支配下の小国の軍を総動員したとしても4万余。
皇帝軍が国境の山岳地帯を押し通って平原部に進出してきた!...
フェデリーゴは圧倒的な戦力差を前にしても動転せず、
冷静に状況の調査と皇帝軍の目標の確認とを命じる。
その後の知らせによると、物資の強制的な収奪等は行なってい...
守備隊の籠る砦を包囲する風はなかった。
これを受け、交渉の余地が十分にある、と見たフェデリーゴは...
カール五世重臣、ザクセン選帝侯モーリッツと会談の場を設け...
ザクセン公、後ザクセン選帝侯モーリッツ。敬虔なカトリック...
皇帝の忠実な与党として対プロテスタント戦役で大いに活躍した
あくまで全カトリックの頂点としての立場を確定するため、
堂々としたローマへの進軍を求める皇帝の立場と、
無用な被害を受けたくないフェデリーゴの立場とでは折衝が難...
来る対仏戦への協力しての参戦と、ウルビーノ軍の大半を
ロンバルディアの対仏国境近くに配置してローマまでの
安全な皇帝の通行を保証することとでどうにか妥結、
一旦皇帝軍はウルビーノ領内から退去することとなった。
#ref(白紙和平.jpg,nolink,60%)
**第六節 [#dfa487e1]
明けて1547年初頭、ローマにて
カール五世の壮麗な戴冠式が執り行われた。
#ref(カール五世の戴冠.jpg,nolink)
同時に嫡子ヨーゼフがローマ王に選出され、
ハプスブルク家が次代の皇帝位を継ぐことが確実となった。
#ref(Henry_II_of_France..jpg,nolink,right,around,80%)
ついに、皇帝並びに配下のドイツ諸国、
イングランド、アラゴン、カスティリア、
ポルトガル、そして、ウルビーノ。
当時のカトリックの大国が軒並み同盟して
フランスに当たる大戦が始まる。
対するはフランス王、フランソワ二世。
英邁なる父の名を受け継ぐ、
生まれながらの王者であった。
フランス王フランソワ二世
**第七節 [#e003e6d3]
戦役は長引き、数々の戦いがヨーロッパ各地を舞台に繰り広げ...
ロンバルディア、カタルーニャ、ノルマンディー、南ネーデル...
中でも、もっとも激しかった戦いは、1552年のエノーの戦いで...
この戦いにはフランス王フランソワ二世、神聖ローマ皇帝カー...
それぞれの君主が最高指揮官として参加しており、互いに凄ま...
#ref(Bernard van orley-695289.jpg,nolink,80%)
戦いの前半において、フランス軍は連合軍を圧倒した。
熾烈な突撃の前に連合軍の防御陣地は次々に抜かれ、
一時はフランス軍の突端が連合軍本陣にまで達し、
カール五世さえ銃弾に晒される程であった。
・・・・・・ここで、カール五世が致命傷を負っていれば或い...
しかし、実際には軽傷に済んだことが勝敗を分けた。
カール五世が退却せず留まったことで連合軍の混乱はそこまで...
立て直しさえ成功すれば、フランス軍の延びきった戦線を押し...
兵力に優っていた連合軍にとって容易いことであった。
**第八節 [#qfb327a5]
エノーの戦いは最終的に連合軍の大勝に終わった。
フランス軍主力は壊滅し、国王フランソワ二世は戦死。
以後のフランス軍は、ただ順々に落とされていく拠点を目にし...
そして1557年、パリにおいて講話条約が結ばれた。
フランス王ルイ十三世は元来の王国の外の領土を全て放棄する...
国内においてすら諸侯が再び専断することとなった。
もはや大諸侯は王権に従わず、国外との――すなわち、皇帝との―...
#ref(比較.jpg,nolink,80%)
左が戦後、右が戦前の勢力図
**第九節 [#z8a38e96]
#ref(Italy_at_1500.jpg,nolink)
イタリアにおいて、戦前フランスが支配していた地域には元の...
ミラノにはスフォルツァ家、サヴォイアにはサヴォイア公爵家...
だが、一つの例外があった。フランスの対伊侵攻の契機ともな...
豊穣にして国王不在の大地、ナポリである。
#ref(2007A7039b.jpg,nolink,right,around,80%)
フランス侵攻前のナポリ王であったフェデリーコ一世は既に亡...
その嗣子、カラブリア公フェルナンドもまた跡継ぎ無く没して...
独立後の王であったロッキ家のフェランテはフランスによる再...
親族には到底王位を狙えるような力はない。
従って、フランスが撤退した後のナポリが
以下の三者による角逐の場となるのは必然であったと言える。
一人は、隣接し、旧ナポリ王家との血縁((第二章冒頭参照))を...
今一人は、先の大戦における戦功大であり、
強大な海軍力を有するイングランド王ヘンリー十一世。
最後に、旧ナポリ王家との血縁こそ既に薄くなっているものの、
独立後のナポリ王国を分割した際に得て、((第二章末尾参照。...
後にフランスによって協定に反して奪われた領土の回復を求め...
かくして、正式に宣戦を布告し合うことは無かったものの、
ナポリでは各勢力が入り乱れて暗闘を繰り返していた。
**第十節 [#s9503167]
ピウス四世。多年に渡ったがゆえ、どこを終着点にするか迷走...
トリアーの公会議を完了させ、対抗宗教改革を完結させたこと...
#ref(Pius_IV_2.jpg,nolink,right,around)
先の大戦のパリでの講和条約ではナポリについての詳細は決定...
カール五世はヘンリー十一世を緩やかに支持していた。
それ故イングランド支持派の勢力は強く、
最盛期には、教皇により「ヘンリー自身がナポリを訪れるなら...
ところが、エノーの戦いで負った傷が元でカール五世が病死す...
後継者であるヨーゼフ一世は優秀さを見せるとは言え未だ若年...
帝国内、及びフランス諸侯の統御に専念せざるを得なくなった。
こうなると、三者の中では、コンドゥルメ元帥をはじめとした...
その支持を得ていたフェデリーゴが一歩抜きん出ることとなる。
折しもアラゴン王フアン三世が、生後僅かな後継者を残して急...
アラゴンは干渉の余力をほぼ失った所でもあり、
1559年、フェデリーゴはナポリを制覇すべく、イングランドに...
**第十一節 [#ba413fb4]
#ref(16068250.jpg,nolink)
ナポリ大聖堂
軍相手の戦闘自体はあっさりと終わり、
主だったイングランド、アラゴン支持派は即座に追放された。
フェデリーゴはナポリ大聖堂にて戴冠、ナポリ王へと即位した。
#ref(Seminara.jpg,nolink,right,around)
しかし、勝利はあくまで表面上のものに過ぎず、
平定にはそこから実に10年もの月日を要することとなる。
理由は宗教対立であった。
征服に反感を持つものも多かったとは言え、
フランスの支配は断続的ながら半世紀弱もの長きに渡り、
その間、国教であったプロテスタントは信徒を増やしていた。
フェデリーゴの即位は、教皇にナポリを再カトリック化すると...
必然、軋轢があろうとも、それを承知で押し通さざるを得なく...
結果として、ナポリは依然としてそこかしこで戦闘が散発する...
イングランド、アラゴン両国は隙あらば、と虎視眈々と侵攻の...
急襲されるウルビーノの騎士
**第十二節 [#pa1ecac0]
敵と相対した戦場においては卓抜した能力を発揮したフェデリ...
際限の見えない統治の諸問題への対処はあまり得手とは言えな...
また、ただでさえ先代と合わせての急速な拡大をしていたのに...
征服した地域の旧支配層の取り込みを余り行って来なかったこ...
官僚を務める貴族は払底し、
現在はナポリ王国となった元ウルビーノ公領は、
君主に政務が集中する体制となっていた。
#ref(政務官の枯渇.jpg,nolink)
この負担はフェデリーゴの体を蝕み、
体格に恵まれていたにも関わらず、
1563年、45歳の若さでフェデリーゴは病死する。
後は一人息子が継ぐこととなった。
#ref(死去.jpg,nolink)
[[最終章へ>プレイレポ / ボルジアの血族 / 最終章 イタリア...
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#ref(Buch2-318.jpg,nolink)
伝 フェデリーゴの肖像画
**小話:ルクレツィアの死 [#j42196aa]
1535年夏。
この頃、前摂政ルクレツィアは流行り病を得て表に出なくなる。
床に伏しがちとなり、
顔色はそれ以前の美しい白肌と比べても一層白く、
透き通る程になっていた。
熱に苦しみ、また咳き込みがちではあったが、
不思議と当人の心持ちは明るかったようだ。
うわ言も苦しみを訴える内容のものではなく、
「もうすぐ、もうすぐまた会える・・・・・・」と
喜びの色のあるものだったらしい。
その死の直前、フェデリーゴ公が彼女の元を訪れて人払いをし、
長い時間語り明かしたとの記録が残る。
その内容については同時代ですら不確かな推測に依るしかなく、
今となっては完全に失われてしまっている・・・・・・
**第一節 [#qa71ffbf]
#ref(コンドゥルメ元帥.jpg,nolink,right,around)
親政の開始後、フェデリーゴが直ちに始めたのは軍制の改革で...
フランス-アラゴン両国によるナポリの再征服時、壊乱するナポ...
大いにフェランテ王の延命に貢献した後、その罪状によって追...
ナポリの有力貴族コンドゥルメ家の当主、
フランチェスコ・マリーア・コンドゥルメを((ゲーム内では、...
外征に耐えうる軍の構築を模索する。
コンドゥルメ元帥晩年の肖像
それまでのウルビーノ軍の編制は、ヴェローナの戦い((第一章...
野戦砲――支配下にあったフェラーラの工廠で盛んに製造されて...
それを槍兵や銃兵が守護するという、さながら移動式の要塞の...
#ref(BattleOfHeiligerlee.jpg,nolink)
この編制は防御力が極めて高い特徴を持ち、
同数か、やや勝る程度の敵に対しては殆ど被害を出さずに退け...
野戦後、都市城塞の包囲の段階になると大砲は絶大な効力を発...
包囲戦を主とするイタリア内での戦争においては大変有効な編...
**第二節 [#x32a8f51]
一方、コンドゥルメ元帥の提言は機動力重視であった。
元帥がナポリ戦争で圧倒的に数において勝る敵軍をしばしば撃...
迅速に移動し、敵の防備が薄い箇所に部隊を集中させて
初撃で相手の指揮能力に損害を与え、
追撃戦にて戦果を拡大するという戦術によるものであったらし...
先の編制は防御力こそ高いものの機動力には乏しく、
相手が敢闘精神に欠ける傭兵主体であったこれまでは
防御して居れば相手が攻めあぐね、砲の効果もあり敵を撤退さ...
より強い敵軍と戦うにあたってはそうは行かない、と言うので...
この提言に、当時、急速にマスケット銃が普及装備となって
銃を主体とした戦術が現実味を帯びたことが加わり、
フェデリーゴはそれまでのものとは全く異なる編制を考案する。
元来は歩兵中の7割程を占めた防御用の槍兵の規模を
5割弱程度にまで縮小。
その主任務を敵軍が崩壊した後の追撃用と定めた。
残りを火器で武装した銃兵とし、
槍兵と銃兵の比率を逆転したのである。
また、鈍重な砲兵の随行は取りやめとし、
状況に合わせて機敏に展開可能なように
移動速度に重点を置いた軽装が主体となった。
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2通りの隊列の図。槍兵が最外部を取り囲んでいた以前の構造...
防御力は下がるものの移動の自由度を獲得した。
また、フェデリーゴは、銃兵に単に斉射させるだけであったの...
背面行進と呼ばれる戦術を編み出した。
まず、前列の兵が斉射した後、
その兵はその場に留まって装填するのではなく、
最後尾に移動してから装填を行う。
その間に後列の兵が進み出て斉射して交代、
また次の列が……と繰り返すのである。
これにより間断なく銃撃を行うことが可能になった。
フェデリーゴ自身が頻繁に訓練に参加して兵に親しまれること...
このような部隊行動を行うための高い練度を成し遂げたとの逸...
マスケット銃兵の装填の様子。当時の銃の装填手順は、
発射→火薬の計量→弾丸の投入→柵杖による突固め→照準→発射、...
フェデリーゴの革新以前は密の高い弾幕を形成することは不可...
**第三節 [#f223d504]
兵の調練を終えた1542年春、
フェデリーゴは前年にフィレンツェがウルビーノの影響下を脱...
ヴェネツィアと同盟を結んだことを咎めるため、
フィレンツェ市を攻撃した。
これに対し、ヴェネツィアは直ちに援軍を派遣することを決定。
ヴェネツィア陸軍とウルビーノ陸軍との対決は不可避となった。
幾度かの小競り合いを経た後、ついに決戦の時が訪れる。
片や、ヴェネツィアは20年前の復讐戦として。
片や、ウルビーノはかつてと同じく敵を地に叩き伏せるために。
――両軍は戦場としてヴェローナを選んだ。
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ウルビーノ軍はフェデリーゴ公自身が総指揮。
ヴェネツィア軍は永年共和国に仕え、
対フランス戦役、対トルコ戦役等、
様々な戦場を渡り歩いた歴戦の軍人、
バルトロメオ・ダルビアーノが指揮を執った。
騎兵戦力において大幅に勝るヴェネツィア軍は
騎兵による突破を用いて序盤を優位に進めるも、
歩兵戦力は、数、練度ともに大幅にウルビーノ軍が上回ってい...
戦闘開始から数時間経過した後、
ヴェネツィア側の展開に伴って中央部が手薄になったのを
フェデリーゴは見逃さず、集中砲火を加える。
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敵が火力に怯んだのを見て突撃を指示するフェデリーゴ
これに虚を衝かれたヴェネツィア歩兵の中央集団はたまらず隊...
突撃に対し無防備な本営を晒すこととなる。
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バルトロメオの死
間もなく、ウルビーノ軍の突撃の波は本営にまで達し、
バルトロメオ・ダルビアーノは戦死。
指揮官を討ち取られたことによりヴェネツィア軍全体が混乱、
士気を大幅に減じて撤退を始める。
以後の追撃戦における損害比は、
もはや戦闘と呼んで比べるべきものではなく、
むしろ狩りと呼ぶ方が適切な程であった。
この戦いはヴェネツィア共和国の没落を象徴する契機となり、
また、親政の開始から余り日を経て居らず、
対外的には全く能力を知られていなかった
フェデリーゴの威信を大きく高めることとなった。
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**第四節 [#db2ea50d]
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カール五世騎馬像
神聖ローマ皇帝、カール五世の生涯は信仰と共にあった。
・・・・・・すなわち、信仰の敵との闘いと。
彼が育ったネーデルラントは、
豊かな経済力と、洗練された文化を持つ先進地域であったが、
フランスと神聖ローマ帝国との境でもあった。
つまり、カトリックとルター派との争いの最前線だったのであ...
この地のカトリック教会は、フランスや北ドイツから送られて...
ルター派宣教師との接触が多かったことから、
プロテスタント側の宗教改革に刺激を受けて、
対抗宗教改革と呼ばれるカトリック内部からの教会刷新運動の...
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トリアーの公会議。宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を...
カトリックの教義を再確認、プロテスタントとの妥協を拒絶し...
そんな中で育った彼は、自然、カトリックの教えを厳格に信奉...
長じてプロテスタントとの対決姿勢を明らかにした。
帝位に登った後は、ブランデンブルク選帝侯国、ボヘミア=ハン...
プロテスタント諸侯との絶え間ない争いを制し、帝国内部に秩...
こうして後顧の憂いをなくした1546年、ついにルター派の最大...
皇帝選挙での対立、反皇帝諸侯への援助等、事あるごとにハプ...
フランス王を討ち果たすための大軍勢を挙げる。
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しかし彼には一つだけ弱みがあった。長年皇帝として支配して...
彼には曽祖父以前、皇帝に本来必須であった資格、「教皇によ...
フランスとの全面戦争に際し、これを自身とフランス王との私...
カトリック対プロテスタントの聖戦とすることを望んだ彼は
教皇の承認を求めて、まず軍勢をイタリアに差し向けた。
すなわち、攻略目標は、教皇の座すローマまでの行く手を阻む、
ウルビーノ公フェデリーゴである。
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**第五節 [#h11bb8cd]
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南ドイツに集結していた皇帝軍は8万超、
ウルビーノは、支配下の小国の軍を総動員したとしても4万余。
皇帝軍が国境の山岳地帯を押し通って平原部に進出してきた!...
フェデリーゴは圧倒的な戦力差を前にしても動転せず、
冷静に状況の調査と皇帝軍の目標の確認とを命じる。
その後の知らせによると、物資の強制的な収奪等は行なってい...
守備隊の籠る砦を包囲する風はなかった。
これを受け、交渉の余地が十分にある、と見たフェデリーゴは...
カール五世重臣、ザクセン選帝侯モーリッツと会談の場を設け...
ザクセン公、後ザクセン選帝侯モーリッツ。敬虔なカトリック...
皇帝の忠実な与党として対プロテスタント戦役で大いに活躍した
あくまで全カトリックの頂点としての立場を確定するため、
堂々としたローマへの進軍を求める皇帝の立場と、
無用な被害を受けたくないフェデリーゴの立場とでは折衝が難...
来る対仏戦への協力しての参戦と、ウルビーノ軍の大半を
ロンバルディアの対仏国境近くに配置してローマまでの
安全な皇帝の通行を保証することとでどうにか妥結、
一旦皇帝軍はウルビーノ領内から退去することとなった。
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**第六節 [#dfa487e1]
明けて1547年初頭、ローマにて
カール五世の壮麗な戴冠式が執り行われた。
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同時に嫡子ヨーゼフがローマ王に選出され、
ハプスブルク家が次代の皇帝位を継ぐことが確実となった。
#ref(Henry_II_of_France..jpg,nolink,right,around,80%)
ついに、皇帝並びに配下のドイツ諸国、
イングランド、アラゴン、カスティリア、
ポルトガル、そして、ウルビーノ。
当時のカトリックの大国が軒並み同盟して
フランスに当たる大戦が始まる。
対するはフランス王、フランソワ二世。
英邁なる父の名を受け継ぐ、
生まれながらの王者であった。
フランス王フランソワ二世
**第七節 [#e003e6d3]
戦役は長引き、数々の戦いがヨーロッパ各地を舞台に繰り広げ...
ロンバルディア、カタルーニャ、ノルマンディー、南ネーデル...
中でも、もっとも激しかった戦いは、1552年のエノーの戦いで...
この戦いにはフランス王フランソワ二世、神聖ローマ皇帝カー...
それぞれの君主が最高指揮官として参加しており、互いに凄ま...
#ref(Bernard van orley-695289.jpg,nolink,80%)
戦いの前半において、フランス軍は連合軍を圧倒した。
熾烈な突撃の前に連合軍の防御陣地は次々に抜かれ、
一時はフランス軍の突端が連合軍本陣にまで達し、
カール五世さえ銃弾に晒される程であった。
・・・・・・ここで、カール五世が致命傷を負っていれば或い...
しかし、実際には軽傷に済んだことが勝敗を分けた。
カール五世が退却せず留まったことで連合軍の混乱はそこまで...
立て直しさえ成功すれば、フランス軍の延びきった戦線を押し...
兵力に優っていた連合軍にとって容易いことであった。
**第八節 [#qfb327a5]
エノーの戦いは最終的に連合軍の大勝に終わった。
フランス軍主力は壊滅し、国王フランソワ二世は戦死。
以後のフランス軍は、ただ順々に落とされていく拠点を目にし...
そして1557年、パリにおいて講話条約が結ばれた。
フランス王ルイ十三世は元来の王国の外の領土を全て放棄する...
国内においてすら諸侯が再び専断することとなった。
もはや大諸侯は王権に従わず、国外との――すなわち、皇帝との―...
#ref(比較.jpg,nolink,80%)
左が戦後、右が戦前の勢力図
**第九節 [#z8a38e96]
#ref(Italy_at_1500.jpg,nolink)
イタリアにおいて、戦前フランスが支配していた地域には元の...
ミラノにはスフォルツァ家、サヴォイアにはサヴォイア公爵家...
だが、一つの例外があった。フランスの対伊侵攻の契機ともな...
豊穣にして国王不在の大地、ナポリである。
#ref(2007A7039b.jpg,nolink,right,around,80%)
フランス侵攻前のナポリ王であったフェデリーコ一世は既に亡...
その嗣子、カラブリア公フェルナンドもまた跡継ぎ無く没して...
独立後の王であったロッキ家のフェランテはフランスによる再...
親族には到底王位を狙えるような力はない。
従って、フランスが撤退した後のナポリが
以下の三者による角逐の場となるのは必然であったと言える。
一人は、隣接し、旧ナポリ王家との血縁((第二章冒頭参照))を...
今一人は、先の大戦における戦功大であり、
強大な海軍力を有するイングランド王ヘンリー十一世。
最後に、旧ナポリ王家との血縁こそ既に薄くなっているものの、
独立後のナポリ王国を分割した際に得て、((第二章末尾参照。...
後にフランスによって協定に反して奪われた領土の回復を求め...
かくして、正式に宣戦を布告し合うことは無かったものの、
ナポリでは各勢力が入り乱れて暗闘を繰り返していた。
**第十節 [#s9503167]
ピウス四世。多年に渡ったがゆえ、どこを終着点にするか迷走...
トリアーの公会議を完了させ、対抗宗教改革を完結させたこと...
#ref(Pius_IV_2.jpg,nolink,right,around)
先の大戦のパリでの講和条約ではナポリについての詳細は決定...
カール五世はヘンリー十一世を緩やかに支持していた。
それ故イングランド支持派の勢力は強く、
最盛期には、教皇により「ヘンリー自身がナポリを訪れるなら...
ところが、エノーの戦いで負った傷が元でカール五世が病死す...
後継者であるヨーゼフ一世は優秀さを見せるとは言え未だ若年...
帝国内、及びフランス諸侯の統御に専念せざるを得なくなった。
こうなると、三者の中では、コンドゥルメ元帥をはじめとした...
その支持を得ていたフェデリーゴが一歩抜きん出ることとなる。
折しもアラゴン王フアン三世が、生後僅かな後継者を残して急...
アラゴンは干渉の余力をほぼ失った所でもあり、
1559年、フェデリーゴはナポリを制覇すべく、イングランドに...
**第十一節 [#ba413fb4]
#ref(16068250.jpg,nolink)
ナポリ大聖堂
軍相手の戦闘自体はあっさりと終わり、
主だったイングランド、アラゴン支持派は即座に追放された。
フェデリーゴはナポリ大聖堂にて戴冠、ナポリ王へと即位した。
#ref(Seminara.jpg,nolink,right,around)
しかし、勝利はあくまで表面上のものに過ぎず、
平定にはそこから実に10年もの月日を要することとなる。
理由は宗教対立であった。
征服に反感を持つものも多かったとは言え、
フランスの支配は断続的ながら半世紀弱もの長きに渡り、
その間、国教であったプロテスタントは信徒を増やしていた。
フェデリーゴの即位は、教皇にナポリを再カトリック化すると...
必然、軋轢があろうとも、それを承知で押し通さざるを得なく...
結果として、ナポリは依然としてそこかしこで戦闘が散発する...
イングランド、アラゴン両国は隙あらば、と虎視眈々と侵攻の...
急襲されるウルビーノの騎士
**第十二節 [#pa1ecac0]
敵と相対した戦場においては卓抜した能力を発揮したフェデリ...
際限の見えない統治の諸問題への対処はあまり得手とは言えな...
また、ただでさえ先代と合わせての急速な拡大をしていたのに...
征服した地域の旧支配層の取り込みを余り行って来なかったこ...
官僚を務める貴族は払底し、
現在はナポリ王国となった元ウルビーノ公領は、
君主に政務が集中する体制となっていた。
#ref(政務官の枯渇.jpg,nolink)
この負担はフェデリーゴの体を蝕み、
体格に恵まれていたにも関わらず、
1563年、45歳の若さでフェデリーゴは病死する。
後は一人息子が継ぐこととなった。
#ref(死去.jpg,nolink)
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