*大航海時代(後編)(1515-34年) [#wc5abc28]

#contents

**カリブ海探検 [#n3e3e8b4]

1515年9月、アルガンを出航したブラツィオ艦隊は、西に進路を向けた。
この頃までに、セントキッツ、アンティグア、バルバドスといった「西インド諸島」の存在が
知られており、周辺で調査をすれば、もっと詳細な情報が手に入るかもしれない、
と考えたのだ。

1515年11月、西インド諸島に到着したブラツィオ艦隊は、ポルトガル領セントルシアを
発見した。
ブラツィオ艦隊は、セントルシアをベースとして、カリブ海の調査に着手した。
その結果判明したことは、

-''胡椒は一粒も見当たらず、当地はインドとは別の土地であると思われる''
-''但し、綿花・煙草・サトウキビ・珈琲等の有力な商品が見られ、できるだけ早めの進出が望ましい''
-''北にも南にもずっと続く海岸が観測されており、巨大な大陸である可能性がある''

ということだった。

&color(olive,white){''【すでに無敵艦隊が!】''};

#ref(./15160101_の世界.JPG,70%)

本国政府は「北方を調査せよ」との命令を下した。
探索中にカスティーリャやイギリス艦隊の影がちらつくため、他国が新世界にも既に進出している可能性があるとして、
状況把握を命じたのだ。

**北アメリカ大陸東岸探検 [#jcd3e986]

1519年3月、フロリダ半島から沿岸沿いに北上したブラツィオ艦隊は、
ポルトガル領ポーハタンを発見する。

ポーハタンをベースとして、さらに北上して調査した結果判明したことは、

-''既にイギリスとカスティーリャの入植がかなり進んでいる''

ということだった。

&color(olive,white){''【1522年中南米の状況】''};

#ref(./15220101-2_の世界.JPG,70%)

&color(olive,white){''【1522年北アメリカの状況】''};

#ref(./15220101_の世界.JPG,70%)

「未開の地も含めてできるだけ詳細に調査するように」との本国の命令を受け、
ブラツィオ艦隊は、1525年10月までポーハタンをベースにして、
グリーンランドやカナダ沿岸の調査を続ける。
今日、かの土地の詳細な沿岸図が残っているのは、ブラツィオ艦隊の功績である。

**南アメリカ大陸沿岸探検 [#e4adb3d8]

北アメリカ大陸沿岸の全てを調査し終えたブラツィオ艦隊は、
南アメリカ大陸沿岸の調査に着手する。

1526年4月、ポルトガル領ペルナンブコを発見したブラツィオ艦隊は、
ペルナンブコをベースとして、探検を行った。

その結果判明したことは、

-''アマゾン川流域には、ラプラタ地域という肥沃な土地が広がっており、農業に適している''
-''南アフリカ大陸西岸には、チムーという黄金の国がある''
-''南アフリカ大陸には、他国は比較的進出していない''

ということであった。

&color(olive,white){''【ん、黄金郷?】''};

#ref(./15280424_の世界.JPG,70%)

ブラツィオ艦隊は、1528年11月まで南アメリカ沿岸の詳細な調査を行った。

**アフリカ大陸東岸探検 [#h5113e1f]

ブラツィオは、再度インド航路の調査願いを本国政府に提出した。
海軍レベルの上昇により、1524年7月にシエラレオネへの入植が成功したため、
シエラレオネベースで調査を行えば、喜望峰をまわることができるのではないか、
と考えたのだ。

1529年1月、本国政府から承認がおりると直ちに調査を開始し、
1529年3月、ケープを発見した。
一度シエラレオネに戻ったブラツィオは、「この先に必ずポルトガルの足跡があるはずだ」と言い、
不退転の覚悟で喜望峰をまわり、アフリカ東岸沿いに船を進めていった。
(このとき、アフリカの暑気で倒れた者は相当数に上ったという。)

1530年12月、ポルトガル領ザンジバルを発見した。
ザンジバルには交易中心地があったことから、中東・インド・東南アジアからの商人が集まっていた。
彼らからの情報により、彼の地の状況が明らかになり、「新規市場の存在を明らかにする」との
目的は達成された。

だが、ブラツィオは、
「イスラム諸国やカスティーリャに航路を妨害された時のために、
インドまで安全に航行できる航路の開拓が必要だ。」
と言い、インド洋上の孤島の探検に着手し、ブルボン、ディエゴガルシア島等を発見した。

&color(olive,white){''【詳細が明らかに】''};

#ref(./15340101_の世界.JPG,70%)

**巨星落つ [#uc9dad48]

この世界がほぼ明らかとなったため、ブラツィオ艦隊はヴェネツィアに帰国することに
決めた。
「ディエゴガルシア島→ザンジバル→シエラレオネ→ゼタ」と航路を取ることが決定され、
乗組員達は、約20年ぶりに祖国に帰れると喜んでいたのだが・・・

1532年12月、ザンジバル近海でブラツィオ艦隊は海賊の急襲を受ける。
応戦しこれを撃退したものの、ブラツィオは深手を負った。
ザンジバルで手当てを施したが、1533年2月、治療のかいなくブラツィオはこの世を去った。

残る乗組員で、苦労しながら航海を続け、1534年2月、「タンブルラノ号」はゼタに帰港した。
しかし、これだけの功績を上げながら出迎える観衆はほとんどいなかった。
というのは、第75代ドージェ(元首)レオナルド・バリラ ロッキの「全ての国力は交易へ!」との大号令のもと、
同年1月から''『新世界の探索』''が国策ではなくなり((≪作者注釈:国策変更について≫国策は、安定度-4のペナルティを払えば変更可能である。))、
かわって&color(olive,white){''『統一的交易方針』''};(交易効率+10%)が国策として採用され、
皆、商売に勤しみ探検に興味がなくなっていたからである。

バスコ・ダ・ガマ艦隊帰港の熱狂ぶりを目の当たりにしたブラツィオがこの有り様を
見たらどのように思っただろうか。
ブラツィオは生きて祖国の土を踏むことができなかったが、むしろその方が良かったのかもしれない。

だが、ブラツィオ艦隊の功績は、以降のヴェネツィアの国家としての方向性を大きく決定づける。
後世のヴェネツィア市民からは、「偉大な航海者」として長く称えられることとなるのであった。

----

&size(15){次話「[[No.22 オスマン侵攻と第2次ハンガリー侵略戦争(1521-25年)]]」につづく};
&size(15){前話「[[No.20 大航海時代(前編)(1499-1515年)]]」にもどる};
&size(15){タイトル「[[アドリア海の女王]]」にもどる};

TIME:"2010-10-10 (日) 02:04:26"

トップ   編集 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS