[[フランク王国再興]] **1514年12月、悪評16.1、対イングランド宗教戦争 [#yc58a5cf] **1514年12月、悪評16.1、対アラゴン防衛戦 [#w48cdd18] ウナム・サンクタム所持による「異端の浄化」を名目に イングランドに宣戦布告 するとすぐにアラゴンが大義名分もなしにつっかかってきた。 野郎、「何度戦争しかけても、領土を取られない」と思ってナメてるようだ。 たしかに、これまでアラゴンに付いてきた神聖ローマの小国から優先して ひどい目に合わせてきたわけだが、これまでと同じと思うなよ カスティーリャがもはやあてにならん以上、お前を潰すのが最優先だ。 |CENTER:&ref(pit146.jpg,nolink);| 今回、アラゴンにくっついてきたのはヘルダーラントとミラノ 他は全部イングランド領 |CENTER:&ref(pit148.jpg,nolink);| 海戦がキモであったが無事勝利。 海の支配者イングランドの時代は終わりを告げたのである。 ちなみに、イングランド陸戦部隊はグラナダ経由でキプチャク・ハンと決戦中 おかげでうちの属国にやられ放題 |CENTER:&ref(pit151.jpg,nolink);| 1516年7月 アラゴンに2領割譲させて和睦。悪評20.6 全部カスティーリャに戦闘任せた。楽チンである。 |CENTER:&ref(pit154.jpg,nolink);| そして1520年 ほぼ全領制圧下において6年、カソリックプロヴィンス転向しないかなーと待つ。 |CENTER:&ref(pit156-2.jpg,nolink);| さらに4年後の1424年1月 転向する様子もないので、あきらめた。 10年戦争(ただイジメてただけ)ここに終結。 カトリックプロヴィンスに、謀略で反乱起こさせればよかったのかな? 2領割譲と改宗で和平、悪評16.1 もっと領土奪えたけど、どうせ厭戦MAXで安定度はマイナス。 勝手に崩壊するのみであろう、と判断した。 |CENTER:&ref(pit156.jpg,nolink);| 割譲させたのはナポリとアブハジア。 ナポリはプロテスタント化してたので、 プロテスタント国家ナポリの誕生を阻止した形。 |CENTER:&ref(pit158.jpg,nolink);| 一方、黒海沿岸のアブハジアのほうは、こっちが狙い。 キプチャク・ハンとやりあうためである。 宗教改革中でうかつに殖民できないから、入植者余ってるし 遊牧民相手に領土を奪う分には、悪評増えないしね。 将来、ロシアが出来上がらないように、一番北を目指す。 **体制変更 [#dfc5b32c] |CENTER:&ref(pit157.jpg,nolink);| 1524年6月 統治18で念願の管理君主制に変更。 自由農民制振り切ってる呪縛から解放される。 |CENTER:&ref(pit159.jpg,nolink);| さらに1527年5月 安定度が回復したので、軍事演習を解除して神の福音を取得。 もうマスケット銃が出てるので、遊牧民程度には負けないのである。 だが、これが思わぬ結果に。 **1527年11月、悪評15.1、対ブルゴーニュ防衛戦 [#ddb6d4d2] **1527年11月、悪評15.1、対アラゴン防衛戦 [#hb5d0654] |CENTER:&ref(pit162.jpg,nolink);| |CENTER:&ref(pit160.jpg,nolink);| 体制変更で正当性が下がり(66点)、さらに安定度がプラマイ0。 そして遊牧民と交戦中で厭戦感情も少々ある。 これを好機と見た、いつもの2国がまた戦争を仕掛けてきたのだった。 うーん、ウザイ。 |CENTER:&ref(pit163.jpg,nolink);| ブルゴーニュの同盟国はトリアー、ヴュルテンベルグ、チロル、ケルン チロル以外はプロテスタントの模様。 アラゴンは単独である。 |CENTER:&ref(pit166.jpg,nolink);| まずはアラゴンを軽くあしらって |CENTER:&ref(pit170.jpg,nolink);| チロルは併合、悪評20.5。金産出オイシイです。 |CENTER:&ref(pit171.jpg,nolink);| |CENTER:&ref(pit172.jpg,nolink);| |CENTER:&ref(pit164.jpg,nolink);| こいつらは金も持っていないので、せめて改宗させとく。 **1530年1月、悪評19.0、対アクイレイア防衛戦 [#h10b4a4b] |CENTER:&ref(pit173.jpg,nolink);| はい、おかわり来ました。 だが、もうブルゴーニュの戦力も潰した後のことである。 時すでに時間切れ。 |CENTER:&ref(pit176.jpg,nolink);| 軽く叩いて50点で和平 いつのまにかピサを持ってたのでいただいておく。 そしてクロアチアを独立させて分断国家に。 1530年12月、一年かからず。悪評21.5 |CENTER:&ref(pit177.jpg,nolink);| 1531年1月 ブルゴーニュからは、イベントで中核のついたヌヴェールをいただく 悪評24.5。またしてもギリギリである。 |CENTER:&ref(pit178.jpg,nolink);| むやみに改宗させたせいで、ウナム・サンクタムがあまり効果なさそうになってきた。 続く NEXT [[重商主義こそ正しい政策だ]] TIME:"2014-06-16 (月) 05:18:41"