[[水の都の物語]]

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|CENTER:神聖ローマ帝国|

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*創始者マリオⅠ世(在位1585-1586) [#ibf3a4d8]

マリオ・ルッツィーニはヴェネツィア史上に偉大なアドリア海の僭主として名をとどめています。
彼はヴェネツィア市に代々続く貴族の名門ルッツィーニ家の出身で、若い頃から将来を嘱望される才人でした。

ルッツィーニ家は十人委員会や国民議会の要職を占め、長らくヴェネツィアの政治権力の一部を握っていましたが、ヴェネツィア共和国の本能ともいうべき権力の分散化システムによって、その権勢にはつねに制限がかけられていました。
ところがヴェネツィアが重商共和制から管理共和制に移行すると、貴族たちは自分たちの荘園をもち、農奴を雇い、利殖を増やすことが可能になります。
富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなっていくのです。
ルッツィーニ家はヴェネツィアの属領で荘園を買い占め、その規模は日ごとに拡大していきます。
1556年の管理共和制への以降から約三十年たった1584年のマリオ・ルッツィーニの元首就任時には、ルッツィーニ家の荘園はヴェネツィア領のおよそ二割を占めていたとも言われています。

こうした圧倒的な経済的地位によって元首(ドゥーチェ)の座を占めたマリオ・ルッツィーニには、もはや強い政治的ライバルは存在していませんでした。
ヴェネツィアの貴族たちはみなルッツィーニ家に買収されるか、失脚させられるかしていて、ドゥーチェとなったマリオ・ルッツィーニが全権委任法を議会で通過させ、反対勢力の追放や殺害をはじめたときになっても、このときの共和国にはそれを食い止める術がなかったのでした。

「余はヴェネツィアの王位に就く!」

と、マリオ・ルッツィーニが宣言したとき、貴族たちは、さすがに動揺したものの、これに敢えて反対する者は一人もいませんでした。
その頃には十人委員会のうち七人がルッツィーニ家の者で占められており、国民議会はマリオ・ルッツィーニをヴェネツィア王とするという決議を賛成三五八、反対八五という圧倒的多数で採択しました。

このとき、ヴェネツィアの宮廷では、地理学者メルカトルが王の即位を祝って彼のできたばかりの世界地図を謙譲し、神学者フラ・パオロが彼のために壮大な大聖堂を建立し、芸術家ハンス・フォン・アルベルトが後世にまで残る彼の肖像画を描いたと言われています。

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|CENTER:1585年7月5日、マリオ・ルッツィーニは王位に就く|

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こうしてマリオ・ルッツィーニは1585年、ヴェネツィア共和国を解体してヴェネツィア王国(公国)とし、ヴェネツィアの王(僭主)となったのです。

マリオⅠ世の誕生です。


ところが、マリオⅠ世は即位から一年もたたない1586年、伝染病によってあっけなく世を去ります(元首就任からわずか二年という矢継ぎ早の出来事でした。おそらく神は、マリオにヴェネツィアを王国とする天命を授けてこの世に送り出し、その使命を果たしたので、彼の命をあるべきところへと戻したのでしょう)。
後を継いだのはニコロⅠ世。
マリオⅠ世の一人息子であり、即位当時、わずか十四歳の少年でした。

**継承者ニコロⅠ世(在位1586-1630) [#c10fe447]
*継承者ニコロⅠ世(在位1586-1630) [#c10fe447]

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|CENTER:ニコロⅠ世には父のような有能さはなかったが、彼は立派に職務をこなした|

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ニコロ・ルッツィーニはよく父のことを思い出しました。
彼の父である、偉大なアドリア海の僭主マリオ・ルッツィーニは、荘園の生産経済に転換していくなかでのヴェネツィア共和国の政治ゲームで連戦連勝を続け、十人委員会と国民議会を制し、ついにヴェネツィアを王国とした政治的ストロング・マンでした。

ニコロ・ルッツィーニは常々父のような君主になりたいと願っていました。
とはいえ、彼が王位を継いだときは弱冠十四歳。政治を取り仕切るのは、おもに、父の取り巻きだった十人委員会の同僚たちでした。
十人委員会の同僚たちは、偉大な独裁者が死んだあとに見られる側近たちのように、権力の座を、王の一人息子にただ譲ってしまうのではなく、自分たちの複数指導制によって扱おうと試みました。
王国の宰相や秘密警察の長官、元帥、提督たちはみな頬を寄せ合って、ヴェネツィア王国は王国とはいえ、事実上は以前の共和国のような権力のあり方にしていこうと囁きあっていました。
そして数年の間は、たしかにヴェネツィア王国は、王国とは名ばかりの国でした。
もし、ニコロ・ルッツィーニが凡庸な意志の弱い二代目であったなら、ヴェネツィアはそう遅くないうちに再び共和制に復帰していたかもしれません。
しかし、そうはなりませんでした。
ニコロⅠ世は、側近たちが思っていたよりもずっと立派で、意志堅固で、そして力強い君主に成長したのです。

ニコロⅠ世は即位して三年後の1589年、彼が十七歳のとき、親政を開始しました。
彼が自ら政治を執行する意志を側近たちに告げたとき、彼らは表向きはそれに賛同したものの、内心ではニコロがろくに政治を司ることはできず、すぐに彼らに泣きをいれてくるものだとタカをくくっていました。
ところがニコロは行政では各地のプロヴィンスで土地の囲い込みを断行して租税の徴収効率をよくし、軍事では軍制改革を行なって新しい装備と訓練と編成を施した歩兵師団や砲兵師団を採用し、貿易ではヴェネツィア、ロードス、マルタの三拠点のCOTを中心にして東地中海にヴェネツィアの独占貿易網を敷いたのでした。
宰相や将軍たちははじめ唖然とし、次には大急ぎでニコロの補佐に回りました。

ニコロは学芸も奨励し、出版法を改正してプロテスタンティズムに相応しい出版の自由をヴェネツィアにもたらしました。
そのおかげで、ヴェネツィアには、法王庁の政治的迫害を嫌った有能な学者たちがたくさん流入してきました。
そのうちの一人に、ヴェネツィア大学に招聘されたガリレオ・ガリレイがいます。彼はこの大学の物理学教授として教鞭をとり、多くの後進を指導し、ヴェネツィアの基礎科学の発展に大いに寄与しています。

この頃には、プロテスタントの中心はルターのいたオーストリアではなく、このアドリア海の女王ヴェネツィアへと移動していました。
オーストリアのハプスブルク家はヴェネツィアと同盟して神聖ローマ帝国皇帝兼法王庁の御者ブルゴーニュと対抗してきましたが、長い間の対外戦争と農民反乱(これらは過激なルターが必然的に招いた災厄でした)によって国力を疲弊させ、二流国へと転落していきました。
十六世紀末には、ニコロⅠ世の下でヴェネツィア王国は正式にプロテスタントの守護者を自称します。
十七世紀にはいると果敢な婚姻外交を展開し、金山保有によって莫大な利益をあげていた隣国のスティリアを外交併合することにも成功していました。

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|CENTER:十六世紀末の地中海貿易図。ヴェネツィアは西のアラゴン、東のトルコにはさまれ苦戦する|

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|#ref(1594 ガリレオ.jpg);|
|CENTER:ナポリによるローマ包囲のなか、監獄から脱出したガリレイがヴェネツィアに亡命する|

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|#ref(1594 プロテスタントの守護者.jpg);|
|CENTER:ニコロⅠ世は没落したオーストリアに代わって新教の守護者を自称した|

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|#ref(1602 選帝侯.jpg);|
|CENTER:また、神聖ローマ帝国の選帝侯にもなる|

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|#ref(1610 うなるスティリアの金山.jpg);|
|CENTER:金山を保有するスティリアを外交併合し、国庫も豊かに|

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新教国ヴェネツィア王国にはオーストリアのハプスブルク家や、バルカンから小アジアに大勢力を築いたハンガリー王国、西地中海の女王と呼ばれたアラゴン王国など、多くの味方がいましたが、同時に、強力な敵も存在しました。

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