(承前)

*定泰 1648年-1692年 [#l4141776] 

栄光に満ちた定泰天皇の時代に起きた戦争は以下の通り。

第5次チムー征服戦争
第6次インカ征服戦争
アチェによる第8次侵略戦争
第7次インカ征服戦争
第3次アステカ征服戦争
第3次マヤ征服戦争
第5次チェロキー征服戦争

見事に原住民国家ばかりなのは置いといて。
いよいよ本格的に原住民国家の併呑に着手した。それを可能にしたのは、宣教師が利用可能になったことだった。
プロヴィンスの宗教が神道になると同時に文化も「日本」となり、暴動発生率はゼロに低下し、従来ゼロ成長だった人口は6%前後の増加に転じた。
反乱に備え駐留していた軍隊は、新しく原住民から獲得したプロヴィンスの警備のために再配置した。
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テノチティトランも日本文化かつ神道を信仰するようになりました。

この長い人生では58プロヴィンスを獲得した。
ロシアが東進していることに鑑み、シベリア植民を進め、また南アフリカ、南米の植民にも着手している。
ヨーロッパ勢の新大陸植民は恐ろしいほど進んでいない。日本だけで北米大陸を占有してしまう勢いなんですが色々と大丈夫でしょうか?
いや、チャーチルやゴーンのように過剰な自信を持とう。太宰治か誰かが書いてた。「弱虫は幸運をも恐れる」と。私が歴史を書くのだから、歴史は私に好意的だと信じよう。

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1692年のアメリカ東海岸宗教分布図。チェロキーの同化待ったなし。

-6個目の国策
1691年、6個目の国策を選択可能になった。現状陸上兵力は10万超で、国境が隣接する陸軍大国は明くらいのもの。ヨーロッパ諸国とは隣接しないため、陸軍の増強は後回しでよい。
一方、日本の海外プロヴィンスは108ヶ所を数え、関税効率の低下を防ぐためにも艦隊の強化が必要だった。
ゆえに国策「大海軍」を選択した。効果は海軍の限界戦力修正+100%。つまり2倍の海軍を低コストで養えるようになる。

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CoT効果で年間1.4人の入植者を獲得。技術レベルもヨーロッパにだいぶキャッチアップしました。ロシアの陸軍技術は23。世界最先端のブルゴーニュで33程度。アキレスは亀に追いつくのです。

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宣教師+0.6人/年。この位で十分だろう。そして国庫には6000ダカットの金がうなっている。多少の無駄は笑って看過できるようになった

-オスマン帝国のヨーロッパ縦断
史実では、世界に冠たる騎兵を誇るはずのリトアニアがあった東欧地域は、地中海からバルト海までを支配するオスマン帝国の版図に組み込まれている。
オーストリア帝国は1プロヴィンスの小国に転落し、中欧の大国ブランデンブルクがムスリムからキリスト教徒を守る防波堤となっている。
ここでブランデンブルクかロシアをプレイしたら面白いだろう。
ちなみにスペイン、オスマン帝国、イギリスも陸軍技術力は27で横並び。オスマン帝国の技術進歩ぶりがスゴイというよりは、この世界のヨーロッパがダメな子たちなのか。
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1691年の世界。ブリテン島はほぼダンツィヒ領になりました。何があったの?


だいぶ定点観測っぽくなってしまい申し訳ない。需要があると信じて統計データを次に掲載する。

-帝国統計年鑑(1692年 民明書房刊)

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収入は100年で3倍に。
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CENTER:&ref(landpower1692.jpg);
世界第五位に浮上。
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大海軍の国策をゲットしたのでこれから拡張する。

ああ、まだ生きているふりをしながら人間たちの間で生きていくのはなんと辛いことだろう。
1692年、私の九度目の人生が終了した。

*摂政評議会 1692年-1701年 [#l4141777] 
私が眠りについている間に13プロヴィンスを獲得した。

*那輔1世 1701年-1717年 [#l4141778] 
カリブ海に進出してきたブランデンブルク、イギリスと交戦、またイギリスと同盟していたロシアとも初めて交戦した。幸いロシアとシベリアで国境を接していないため、南アメリカでの比較的小規模な殴り合いとなった。
北アメリカに残った最後の原住民国家、ヒューロンの我が国による征服が本格化した。
この人生では28プロヴィンスを獲得した。シベリアでのロシアでの対決に備えシベリア植民を活発化させていたが、ロシアはオスマン帝国との戦争で疲弊し、植民どころではない様子。
この人生では28プロヴィンスを獲得した。シベリアでのロシアとの対決に備えシベリア植民を活発化させていたが、ロシアはオスマン帝国との戦争で疲弊し、植民どころではない様子。
ライバルとなりそうなヨーロッパの大国が次から次へと自らコケていくこの幸運を最大限に生かさなければならない。
もうこうなったら、歴史的に世界に混乱と戦争を巻き起こすためだけに存在するような国だった史実イギリスの上位互換を目指して、世界史に独善と排他の悪名を刻んでいこう。日本は蛇蝎のごとく嫌われるかもしれない。でもそれでいい。嫌われるということは、自由に生きている証だ。
1717年、内心に鬼のような昏い決意を抱きつつ、十度目の人生が終了した。

-ロシアとオスマン帝国の対立

1675年、ロシア王国の国王にニコライ1世がついた。ニコライ1世の治世は強大なオスマン帝国との対峙の歴史であった。
ニコライ1世は5プロヴィンスを得たが、オスマンによるカシモフ再征服戦争などの結果、17プロヴィンスを失うこととなった。
1713年、ピョートル1世が国王の位を引き継いだ。ロシアの歴史書によれば、ロシア-オスマン懲罰戦争は極めて大規模な戦争となった。
最大規模の戦いとなった「サマラの戦い」では、ピョートル1世自ら率いる59000のロシア軍と28000のオスマン軍が激突。ロシア軍が勝利した。しかしその後、合計30万の兵力を擁するオスマン帝国軍にロシア軍は各地で突破された。

ロシアの劣勢につけこんだフィンランド-ロシア帝国主義戦争が勃発しロシアは西に敵を抱え、更に、シビーリによるタラ再征服戦争の勃発で東からも包囲された。やがてロシアは屈辱的な講和をオスマン帝国と結び、リャザンをはじめ12のプロヴィンスを失ったのだった。ギリシャ正教のプロヴィンスがごっそりなくなって、もうオスマンがロシアみたいになってるけど……まあ、どこかの国は21世紀にもなってクリミア併合してたしなあ。まして17世紀の世界では(現代でも基本的に同じだが)国家同士の関係は力のみが決定し、法も警察権力も通用しない。仕方ないよね。

その後ノヴゴロドとの間でロシア継承戦争が勃発、1730年8月25日、一軍を指揮していたピョートル1世は戦いの最中に命を落とした。
ニコライ1世、ピョートル1世ともに「シベリアを東進」を決定していたが、強大なオスマン帝国との相次ぐ戦争は、ロシアにその野望を叶える機会を与えなかった。

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TIME:"2019-03-12 (火) 17:12:27"

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