[[フランク王国再興]] |CENTER:&ref(pis059.jpg,nolink);| カッチを得たことにより、インド交易会社の設立に成功。 重商主義に振っていて、国威がMAXあるにせよ、ドイツ小国連中が元気なので 交易の独占体制が完璧とは言えない。 少しでも競争能力が上がるのはいいことである。 **アンリィィーーーい!その2 [#dde8072f] |CENTER:&ref(pis060.jpg,nolink);| 1586年4月 後継者アンリ、前年に続いてまた病に倒れる。 今回も医師団の働きにより50%の確率で一命を取りとめた。 アンリ・ド・ヴァロワ12歳、前途多難である。 **1586年6月、悪評5.7、クリミア侵攻 [#n2749be1] |CENTER:&ref(pis061.jpg,nolink);| 内乱中だったこの地域に新興国家クリミアが誕生 |CENTER:&ref(pis066.jpg,nolink);| したので、併合しておいた。できたての国家オイシイです。悪評8.3 |CENTER:&ref(pis067.jpg,nolink);| この頃の南米 順調である。本格的に殖民を開始してからわずか25年、遊牧民ボーナスはやはり効果的。 **1589年2月、悪評6.8、第2次マムルーク侵攻 [#c4180ef0] |CENTER:&ref(pis070.jpg,nolink);| 休戦協定も明けたので、再度マムルーク朝に侵攻。 今回の戦略目標は、聖地の奪還とシナイ半島=紅海ルートの奪取である。 |CENTER:&ref(pis071.jpg,nolink);| 計4個師団で、要塞を突撃で破壊しながら速攻をかける。 |CENTER:&ref(pis074.jpg,nolink);| 1589年8月 戦勝点42点で、10領奪って和平。悪評16.0。 アラビア半島側に広いのは、戦勝点コストが安かったのと、 旧オマーン領に防衛施設2が多かったゆえか。 **1590年6月、悪評14.5、対アチェ侵攻 [#w8bc347b] |CENTER:&ref(pis077.jpg,nolink);| 東南アジア方面もほぼ探索したので、アチェ、および属国マラッカに宣戦布告。 目標はCOTのあるマラッカ1領である、とりあえず。 |CENTER:&ref(pis079.jpg,nolink);| ところが、ここで誤算が。 アチェは現在、バリ、パッターニ連合と交戦中で、いくつかプロヴィンスを占領されている。 ここまでは事前の調査で予測できたのだが・・・ なんと、アチェの首都がマラッカにあるじゃないか。 なんで遷都してんだよ~ 敵国の首都プロヴィンスを落としたい時は、もう全土併合するしかないわけだが、 すでにバリとパッターニにいくつか占領されている。 そこで、フランスの採った選択は・・・ |CENTER:&ref(pis080.jpg,nolink);| |CENTER:&ref(pis081.jpg,nolink);| 当然、バリとパッターニに宣戦布告して、占領下のアチェ領を奪う暴挙に出る。 |CENTER:&ref(pis082.jpg,nolink);| 結局、相争う東南アジアを、全部敵に回すフランスの雄姿がこれである。うーんひどい。 |CENTER:&ref(pis087.jpg,nolink);| それを見たチェロキーがケンカを売ってくるという。うーんウザイ。 |CENTER:&ref(pis099.jpg,nolink);| 1592年12月 結局、アチェとマラッカとパッターニを全部併合して、東南アジアは平和になったのだ。 悪評、20.9。 **日本発見 [#v3af8226] |CENTER:&ref(pis118.jpg,nolink);| マラッカ海峡から先もようやく探検開始。 日本が発見されたのは、史実から大きく遅れた1594年のことである。 続く NEXT [[我は国家なり]] TIME:"2014-06-25 (水) 03:56:33"