[[交易レボルーション]]
[[交易革命 ハンザ 大航海時代]]
*オスカル・ゲヴァート・フォン・ホーエンツォレルン [#je70ecbd]
**ホラントとの戦争 [#w3ef33d0]
#ref(ホラント.jpg,right,around,ホラント);
 1503年。ホラントが宣戦布告をしてきた。
 ホラントは7州を支配している大国の上に、我がハンザと同じ規模であるブレーメンを属国にしている。
 ハンザの兵力ではブレーメンの部隊を駆逐することが限界であり、押し寄せてきたホラントの大軍の前に敗退し、通行許可のあったメクレンブルグに追いやられてしまった。
 ハンザは建国以来始めての危機に直面し、誰もが、ハンザの崩壊は時間の問題だと思われた。
 その時、神聖ローマ皇帝であり同盟国であるブランデンブルグの援軍が到着した。
 ブランデンブルグの軍隊は強力であり、ホラントの部隊を駆逐していった。ハンザの部隊は、騎兵が中心であり、敗走するホラントの部隊を追撃し、ちゃっかりと、とどめをさした。
 その後、ホラントからアントウェルペン(現在のアントワープ。ホラントの一番南の州)を割譲する形で和平が成立した。
 この戦争で、2つ目の交易の中心地を手にしたハンザは、最盛期の8割ほどの交易量に復活した。
 フランドル地方は、ホラントの没落を受け、ブラバントが、フランドルのほとんどを領有することになった。

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**宗教改革 [#x0f2db17]
 ホラントとの戦争も終わり、一息ついていたころ、教皇の腐敗を否定した宗教改革の波がドイツを襲った。
 この宗教改革では、改革派の不況が優れており、1510年にはオーストリア、1514年にはボヘミアなどの大国が改革派に宗旨替えをした。新教は、プファルツ・バイエルンなど、中堅国を改宗するにとどまり、神聖ローマ皇帝ブランデンブルグの圧力の前に、カトリックに戻った国家もあった。
 この宗教改革では、改革派の布教が優れており、1510年にはオーストリア、1514年にはボヘミアなどの大国が改革派に宗旨替えをした。新教は、プファルツ・バイエルンなど、中堅国を改宗するにとどまり、神聖ローマ皇帝ブランデンブルグの圧力の前に、カトリックに戻った国家もあった。
 ハンザも、リューベックで改革派が隆盛になり、ついに、改革派に転向することにした。その後、ハンブルグを改宗させ、ボヘミアと同盟をすることになった。
 なお、ブランデンブルグは、改宗後に再度同盟を結び直してくれたため、ハンザは、外交面で孤立することはなかった。

1528年 ハンザ 改革派に改宗

**ドイツ内戦 [#n8bc4266]
#ref(ドイツ内戦.jpg,right,around,ドイツ内戦);
 宗教改革の波が荒れ狂う中、各諸侯の間の中にも対立が深まっていた。
 ひとつの戦争が次の戦争を呼び起こす連鎖で大戦争が始まったのである。
 特に、アンスバッハがかかわる2つの承継戦争が、ドイツ全土にわたる大戦争を呼び起こしたと言ってもよいと思われる。この戦争にかかわった国は22カ国を超えると言われ、文字通り、神聖ローマ帝国内のほぼすべての構成国が参加した戦争になったのである。
#clear
1517年6月28日 ポーランドがマゾヴィアに対してポーランドによる第2次侵略戦争を開始。
1517年7月6日 アンスバッハがポーランドに対してポーランドの継承権をめぐるアンスバッハ戦争を開始。
1517年8月25日 バーデンがポーランドに対してバーデンによる侵略戦争を開始。
1517年11月17日 ポメラニアの継承権を巡り、アンスバッハとオーストリアが戦争を開始。
1518年2月24日 マグデブルクがチューリンゲンに対してマグデブルク-チューリンゲン交易戦争を開始。
1518年3月16日 ブラバントがミュンスターに対して第2次ブラバント介入を開始。
1518年3月24日 プファルツがチューリンゲンに対してプファルツ介入を開始。
1518年8月3日 ブラウンシュバイクがチューリンゲンに対してブラウンシュバイクによる第2次ブランズウィック再征服を開始。
1518年8月20日 バイエルンがアンスバッハに対してバイエルンによるアンスバッハ征服を開始。
1518年8月30日 ヘッセンがマグデブルクに対して第3次ヘッセン介入を開始。
1518年11月22日 マインツがアンスバッハに対してマインツによる第2次アンスバッハ再征服を開始。
1518年12月23日 スウェーデンがチュートン騎士団領に対してスウェーデンによる前ポンメルン征服を開始。
1519年3月31日 アンハルトがチューリンゲンに対してアンハルトによる第2次テューリンゲン再征服を開始。
[[交易革命 ハンザ ]]

**改宗か死か [#uc32e306]
 宗教対立が激しくなったころより、神聖ローマ皇帝から構成国への干渉が激しくなってきた。
 中には、恫喝により、泣く泣く宗派替えをした諸侯もあり、皇帝に対して反目する諸侯もいた。しかし、各宗派間で合意できる皇帝候補がいなかったため、ブランデンブルクが、これまでどおり皇帝の座に居座った。
 ブランデンブルクは、対立候補が出てこない状況を利用し、帝国統治院や宮廷裁判所の設立を提案し、皇帝権威を高めた。
 さすがに、皇帝税の導入は、ブランデンブルクの独走を良しとしない大国の都合で、たびたび廃案となったが、宗教改革の時代に帝国の秩序を維持発展した功績は、後世にも評価される。
  
**ハンザの抱える問題 [#y7766dd3]
 ホラントから得たアントウェルペンは、領有したときには、重要な要衝になると思われた。
 しかし、飛び地の上、ネーデルラントのほとんどを支配したブラバントのネーデルラントの統一の目標の前に、同盟国のボヘミアとブランデンブルクの抑止力に頼る状況になった。現時点では、爆弾の導火線を持っている状況となった。
 西にブラバント、南にオーストリア、東にブランデンブルク、北にスウェーデン、デンマークと大国の壁がある。
 新大陸と言われるアメリカも、すでに、イングランドやカスティーリャの進出が著しい。
 ハンザの活路をどこに見つけるのか。それが課題となった。
[[交易革命 ハンザ 皇帝の夢と現実]]
[[交易レボルーション]]

TIME:"2010-09-09 (木) 20:29:49"

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