#contents *摂政会議の時代【内政6外交4軍事4】(1602年10月30日~16051月27日) [#j7acae62] (代替わりした日にセーブすると死んでないことになるみたいです。アーメドがしばらく生きて摂政会議になりました。) #ref(1602.jpg) 新しいスルタンはまだ若く国政は摂政会議によって執り行われることとなった。 さしあたっての緊急問題である軍備の増強から始まった。現状3万の正規兵および戦争の際に雇う傭兵をメインに戦いをすすめてきたが、前回のポーランド、リトアニアとの戦いにはこれでは全く足りないことが判明したのだ。まもなくイエニチェリ部隊にも銃が装備されることが判明している(陸軍技術14) また摂政会議は国の体制を変更することを決意する。ヨーロッパとの技術のさを生めるためにできるかぎり新しい考えを取り入れる方向に舵を切ったのだ。 そして更に重要なことに、官僚組織を整備しより効率的な内政を行うことにした。これにより生産の効率があがり収支がふえたことは言うまでもないだろう。 こうして若いスルタンが成長するのを待つこととなった。 *セリム3世の時代【内政4外交7軍事8】(1605月27日~16262月21日) [#lc7a7945] ようやく成人したスルタンセリム3世であるが、引き続き内政に取り組まなければならないことは明白であった。国力の増加こそが技術力で差がつきだした西洋に追いつくための手段である。 まずは全土に裁判所を置き治安をよくする対策を始めた。そして治安がよくなったところから順に軍察長官を配置し税収を効率的に徴収できるようにするためだ(直接税の50%UP)。 1612年にダルマチアがヴェネツィアから反旗を翻し帝国の傘下に加わった。これによりアドリア海東岸のほぼ全域を手中にしアドリア海の制海権も自在に握れるようになった。しかしながら、帝国は長らく陸軍重視で着ており海軍はわずかにスルタンの御召船のみという有様であったが。 またリトアニアがポーランドとの同盟を解消したという朗報も飛び込んできた。内政が整ったあかつきには父の仇を討つチャンスが到来するかも知れないということである。 15年ほどの期間がかかったが1622年には全土に軍察長官と市場の配備が終わった。これにより帝国の財政基盤が従来の2倍以上になりあらたな施設拡充なのに力をまわせることとなる。スルタンは金策が出来次第大学を建てることを命令。官僚たちは場所の選定を始めた。 #ref(./1623.jpg,50%) わが国が中核州とみなしているボスニア、スロベニアがヴェネツィアから独立。スルタンはこれを回収すべく宣戦を布告する。 1625年にボスニア併合を完了。同年首都イスタンブールに大学建設が始まった。順次産業施設の拡充に励む予定である。 #ref(./1625.jpg,50%) 1626年、帝国を更なる繁栄をもたらしたセリム3世はイスタンブールの宮殿で亡くなられた。自ら建設を指示した大学の完成を見ること無しに。官僚たちは亡きスルタンの名前を冠したスルタン・セリム3世大学と名前をつけることに決定する。 *ムスタファ1世の時代【内政5外交7軍事7】(1626年2月21日~1646年11月1日) [#s381553a] #ref(./1626.jpg,50%) 大学の建設は無事終了し盛大なセレモニーとともに開校された。教授はイスラム、ヨーロッパを問わず優秀な人材を集めて行われたという。スルタン自らも学生とともに授業に参加するときもあった。 1629年にスルタンは、ブルガリアの鉄を有効に使用するためにかの地に兵器工場を建設指示された。これにより陸軍技術のさらなる発展スピードが見込まれることとなった。 ヨーロッパ方面ではポーランドとリトアニアが再度同盟を結んだ。これにより西方はがっちりブロックされた形となりどうしようもない状態に陥った。結局のところオスマン帝国には現時点でこれ以上の拡大を行える力は無かった。にらみ合いが諸州で続くことになる。 スルタンは軍事力増強のために各州に軍隊の駐屯所を建設することを指示。これにより州に駐在できる最大の兵数が増えることになる。 1643年スルタンは肥沃なエジプトの土地を狙ってマムルークに侵攻することを決意する。その数総勢35000.数では互角であるがオスマン軍の新鋭イエニチェリは訓練も十分であり楽勝が予想される戦いであった。 #ref(./1643.jpg,50%) 戦争も3年目の1646年スルタンはナイル河畔の戦いで命を落としてしまう。エジプトの征服の夢は息子のムラート3世に引き継がれることとなった。 *ムラート3世の時代【内政8外交7軍事5】(1646年11月1日~1651年8月28日) [#zd4a1d9b] #ref(./1646.png,50%) ムラート3世はイスタンブールで父の死の知らせを聞いた。エジプト遠征軍にスルタンの死の動揺が走っていないことを確認すると彼自身はイスタンブールから指示をすることに決めたのだ。 戦争は足掛け5年にも及んだ。エジプト全土を占領されたマムルークは飛び地であったダマスカスおよびエジプトの入り口であるナイル川河口の要衝を手放すこととなる。 #ref(./1648.jpg,50%) 1650年長らく属国であった白羊朝が外交併合に同意。帝国の版図が更にひろがった。 1651年、スルタンは突然倒れた。結核にかかっていたのである。彼の死後弟が新しいスルタンの座につくこととなった。 *アブドゥルハミド2世の時代【内政5外交8軍事4】(1651年8月28日~1653年11月22日) [#df9ad1ae] #ref(./1651.jpg,50%) 彼の治世は非常に短かった。たった2年の治世で何が出来ようか。新たに獲得した技術で全土に関税所を建て始めた矢先の短い死であった、息子はまだ若く摂政内閣が成長まで国政をになうことになる。 噂によればスルタンは、ハーレムで暴飲乱遊を繰り返していたため病のために早死にしたという。 *摂政会議時代【内政5外交8軍事4】(1653年11月22日~1656年3月7日) [#e8975038] 3年あまりの会議時代に特筆したことは起こらなかった。 *メフメト5世時代【内政5外交4軍事4】(1656年3月7日~1674年4月23日) [#o67ee04f] #ref(./1656.jpg,50%) 次のスルタンに着いたのは暗君で名高いアーメド5世である。彼は政治、軍事に全く興味がなくハーレムに篭りっきりであった。 しかしながら長年培われてきた官僚制度は日常の内政をこなして問題なく帝国の運営が行われていた。スルタンが政治に興味を持たないことは逆に今まで拡大主義を続けていた帝国の指針を大きく変えることとなり久々の戦争のない時代を民は楽しんでいたのである。 今まで差をつけられていた技術力においてもポーランド、リトアニアには完全に水をあけ、強国オーストリアには陸軍技術のみではあるが並ぶところまで追いつくことが出来た。定刻の次なる目標はイタリアの入り口であるオーストリア討伐およびローマへの進軍となることは重臣たちの間では当然の認識になっていた。 *イスファク1世時代【内政3外交4軍事7】(1674年4月23日~1677年8月11日) [#vf20f465] #ref(./1674.jpg,50%) 父の在位中18年の間にオスマン帝国の国力は官僚たちの努力により大幅に上昇していた。先にも述べたとおり陸軍技術においても隣の強国オーストリアに遅れを取らず十分に対抗できるほどであった。 現時点で考えられる戦略としては、シーア派の黒羊朝を叩いて東にすすむか、オーストリアと決戦を挑んで西に進むかである。西に進むにはオーストリアがポーランドと同盟を結んでいる限りポーランドも同時に相手にしないといけない。兵力数でいえば、オーストリアとオスマン帝国軍でほぼ同じぐらいでポーランドが加わると劣勢になる。ポーランド相手に兵数を割いてしまうとオーストリア戦線が厳しくなることからもうしばらく西方は様子を見ることにし東に進むことにスルタンは決定した。 イスファク1世の統治も短かった。たった3年で病に倒れてイスタンブールの宮殿で死去。1676年に始めた戦争がまだ続いている状態だった。 *オスマン2世時代【内政8外交4軍事4】(1677年8月11日~1682年2月2日) [#p889ef8d] 後を継いだのはオスマン2世であった。彼は兄のスルタンが始めた戦争を終わらすことに努力を払った。結局グルジア地方の2州を割譲で黒羊朝と和睦。 返す刀で今度はマムルークに宣戦を布告した。アレクサンドリアの割譲と属国化でマムルークも屈服させたオスマン2世は即位して初めてイスタンブールに戻ることになる。 戦争後7年間内治の向上をめざして努力したが、8年後病によって死去する。甥のスレイマンがスルタンに即位することになる。 *スレイマン1時代【内政8外交4軍事4】(1682年2月2日~1692年11月11日) [#l4cfd6ae] #ref(./1686.jpg,50%) 先代のスルタンの時代には、革新的な考え方が大いに広まりイスタンブールにある大学では先進的な研究が繰り広げられていた。 しかしながら、逆にイスラムの世俗化が進み聖職者の権力は失われつつあった。無理な改宗活動は止めて宗教は関係なくともにオスマン臣民として生きていくという考え方が広まり始めたのである。こうしてオスマンのイスラム改宗政策は終止符を打たれた。 さらに新たなナショナルアイデアで工兵部隊の創設を決定。これで要塞攻略の速度があがるのである。 イスラム法より世俗の法が勝るとしローマ法を参考にした法律を次々と制定したスレイマンは、立法王として後世よばれることとなった。 *アーメド3世時代【内政8外交4軍事7】(1692年11月11日) [#m422810f] スレイマン1世はまた教育に熱心であった。イスタンブールの大学もヨーロッパでは有数の大学と数えられるほどの規模になり学生数も3000を超える数になっていた。息子のアーメド3世もその大学で学んだのである。 1693年スルタンはキリスト教国へのジハードを宣言する(ナショナルアイデアを異教徒への宣戦布告による安定度-無しに変更)。オーストリアは放置してアドリア海を渡ってイタリア半島に上陸することに決定。全土で久々の造船が始まった。