#contents [[三日月の旗の下に3]] *''アブドゥルラーマン1世の時代【内政8外交3軍事5】(1533年3月16日~1555年3月1日)'' [#aa7a933a] #ref(1533.jpg) 父スルタンが亡くなった後現れたのがアブドゥルラーマン1世である。かれは引き続きポーランドとリトアニアとの戦争を続けることとなった。 野戦で勝利を収めながら包囲を続けて占領地を増やしていく戦いが続いた。1534年ハンガリー人が住む地方をほぼ全土占領した段階でポーランドが降伏。パルチウム地方、ルテニア地方、カルパチア地方を割譲、および我が領土のベッサラビアに対する領土要求の放棄で決着がついた。リトアニア方面では我が軍は積極的な作戦にでず現状維持となった。 #ref(1534.jpg) スルタンは1540年クリミアの派遣をめぐってクリミア候国に宣戦を布告した。またこの年科学革命が発生し、イスラム最高法院から科学とイスラムは相反するものではないとの見解が出されスルタンは科学に対して積極的にサポートを行った。これによりわが国の研究が早くなったのである(国家レベルが5になったため2つめのナショナルアイデアの獲得)}。 戦争はカッファの割譲と属国化で幕を閉じた。 1542年スルタンから新たな指令がでた。アブドゥルラーマンモスクを全国のすべての領土に立てるという勅令である。遠い日本でも仏教の布教のために天皇が各国に国分寺を建てたという前例があるがこれに似たものであった。コンスタンチノープルおよびアナトリア半島から順にモスク建設が始まった(国家テクノロジー6から寺社の建設可能。安定度コストの低減) 1553年漸くクリミア候国との合併が決定しクリミア半島を全土手中に収めることに成功した。 こうしてオスマン帝国は黒海の西半分の制海権を手中にすることに成功したのである。 #ref(1553.jpg) クリミアの合併により彼らから東方一帯の情報を手に入れることが出来た。富裕な土地を持つインド、中国、日本という国が存在することを確認。スルタンはインドとの香辛料取引のため多数の承認を派遣することに決定した。 1555年全土にアブドゥルラーマンモスクの着工が完了した時スルタンは完成を見ずにアッラーの下に召された。モスクの建設に取り組んだことにより、後代信心深きスルタンとしてイスラム世界で広まることとなった。 *''イブラヒム1世の時代【内政5外交8軍事6】(1555年3月1日~1562年2月9日)'' [#t23f76ea] #ref(1555.jpg) 先代のスルタンの跡を継いだのは次男のイブラヒムであった。先代の長い統治の結果、帝国に繁栄がもたらされ(安定度3)国庫には大量の金が蓄えられていた。 バルカン半島では反乱軍がオーストリア領を席巻し一時の勢いをオーストリアは完全に失っていた。 機が熟すまで待つことに決めたスルタンはマムルーク討伐に向かうこととなった。 1562年4万の軍勢とともにマムルークに侵入。各地でマムルーク軍を破っていった。 しかし不幸なことに戦場でスルタンは流れ矢にあたり戦死した。 *''スレイマン2世の時代【内政8外交7軍事6】(1562年2月9日~1577年2月8日)'' [#ca6a5f66] スレイマン2世はイブラヒムの弟である。彼の即位は戦場であわただしく行われた。戦争はスレイマン2世が引き続き行うことなる。 戦争が3年続き漸く1565年地中海沿岸3州の割譲を条件にマムルークと和平が結ばれた。 #ref(15651.jpg) トルコが東に目を向けている間にバルカンではオーストリアから4国が独立をしていた。セルビア、モンテネグロ、ラグーザ、ボスニアである。 #ref(15652.jpg) スレイマンは2年間の軍隊の休養を宣言しその後新たに独立した国々を侵攻することになる。 1567年ボスニアに宣戦布告。モンテネグロも同盟国としてボスニア側として参加した。 ボスニア軍にトルコ軍を支える力も無くハム地方の割譲で単独講和。残るはモンテネグロのみとなった。 同年9月にヴェネツィア人の顧問を擁してイスタンブールに銀行が開設される。これによりインフレーションなどの逓減が予想されるであろう。 12月にモンテネグロも降伏。帝国はヨーロッパに版図を更に広げることに成功した。 #ref(1567.jpg) その後スレイマン2世は内政の拡大を目指した。しばらく中断していたバルカンのイスラム布教を再開したのである。 1577年スレイマン2世は栄光の治世を終えた。久々にイスタンブールの宮殿で死んだスルタンであった。 スレイマン2世の死直後の宗教状態 #ref(1577宗教.jpg) *''アーメド2世の時代【内政4外交7軍事5】(1577年2月8日~)'' [#l9cf0953] #ref(1577.jpg) スルタンの即位の際にラグーザより祝いの使者が贈られた。しかし無知なことに豚の皮で作られた工芸品を献上品として持ってきたためにスルタンはラグーザの使者に激怒する。使者は捕らえられて首を切られた。 この件を口実にスルタンはラグーザ侵攻を決意する。ラグーザには兵もなく1577年の年末には陥落し新たなオスマン領土として加えられた。 #ref(15772.jpg) 1582年マムルークと第二次の戦争が始まった。4年にわたる長い戦争だったがアラビア半島の領土およびエジプトの付け根の部分を奪取することに成功した。 #ref(1586.jpg) 1592年ポーランドとリトアニアが突如宣戦布告。今回はオスマン側が圧倒的の押される展開だった。スルタンは必死に防戦を繰り広げるも敵の大群に飲まれてしまい圧倒的な敗北を喫する。 9年間の戦いでオスマン側は10万以上の兵士を戦場で失ったという。 結果オスマン帝国が中核州としていたポーランド、リトアニア領に対して要求権を放棄することで和睦が成立した。 失意のなかアーメド2世は崩御しその息子のオスマン2世がスルタンの位に上ることとなる。 三日月の旗の下に3