[[キリストの武装せる腕――チュートン騎士修道会興隆史]]

さて、前回縛りをかけられたので、
今回は敢えて、一番面倒臭そうなロシア撃滅でいきます。

**七十年戦争 [#pa6ce499]

さて、1527年。
チュートン騎士団は岐路に立たされていた。
そう、その膨大な領土は既にもはや修道国家としての領域を越えていたのである。

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当時の騎士団長カール・ヨーゼフとしても、
この変則的な状況を打破するため、教皇と交渉して自らを世俗君主として認めるよう運動していたことはよく知られている。
その結果、教皇はある条件と引き換えに彼を国王として認める旨を内示した。
―ロシアをカトリック化すれば、ルーシ王として認める、と。

この結果、長い長いロシアとの戦争が、七十年戦争と呼ばれる不毛な戦争が幕を開けることになる。

きっかけはロシアがハンザ同盟の言に従い、チュートン騎士団を貿易から締め出したことによる、とされている。
しかし必ずしも貿易摩擦が口実である必然性はなかったと言っていいだろう。
それはその後の狂気とも言えるチュートン騎士団の幾度もの侵略が示している。
この戦争によるチュートン騎士団はロシアの閂とも言えるスモレンスク周辺を獲得した。
#ref(緒戦.jpg)

チュートン騎士団の勝利に呼応する形で、教皇は東方正教に対する第二次北方十字軍を行うことを宣言。
チュートン騎士団は正式にロシアを攻撃する大義名分を得たことになる。((単にウナム・サンクタムを国策に選択して大義名分を得ただけである))

#ref(ウナム・サンクタム.jpg)

こうして再び遠征の準備を整えるチュートン騎士団であったが、ここで団長カール・ヨーゼフが急逝。
世俗君主を夢見た騎士団長の夢は散った。
後を襲ったのはアルブレヒト。戦士としてよりも優秀な行政官として前団長に重用されていた人物である。

#ref(アルブレヒト団長.jpg)

しかし、アルブレヒトの治世は内政よりも、むしろ先代以上に戦争に明け暮れることになるのであった。

アルブレヒトは早速先代の遺志を継ぐべく、ロシアへの十字軍へと打って出た。
いくらアルブレヒトが戦は苦手だとしても、そもそもそれは騎士団内での話である。
そもそもロシア軍は大多数は軍の態を為していない、農民に毛が生えた程度の軍隊。
チュートン騎士団の突撃の前に大敗を続けて行った。
そうしているうちにキエフが陥落。
このままロシアが敗北するのも時間の問題かと思われたが・・・。

#ref(スウェーデン宣戦.jpg)
スウェーデン、チュートン騎士団に宣戦布告。
北方の雄スウェーデンによる攻撃はチュートン騎士団に対して絶望すら与えた。
ただでさえ国内は内乱も頻発している。
ここでスウェーデンを相手できようか・・・。
ひとまず騎士団はロシアと講和。ポルタヴァ周辺の割譲及び、
オスマン帝国とたたかって得ていたトランシルヴァニア公位の放棄を条件に和平を結んだ。
#ref(ロシアとの和平.jpg)

そして、スウェーデンとの戦いに挑んだ騎士団は、
今までの相手が如何に軟弱であったか、自らが如何に井の中の蛙であったかを思い知らされることとなる。
スウェーデン国王グスタフ1世自ら率いている軍は精強であり、。
その後騎士団は一時体制を立て直すも、ネヴァ川で致命的大敗をすることになる。
#ref(ネヴァ川の大敗.jpg)

まさに軍事国家にして祭政一致国家たるチュートン騎士団には痛恨の一撃とも言えた。
その支配体制は全くその軍事力とカトリック信仰に依拠しているこの国家にとって、
プロテスタントを奉じるスウェーデンに軍事力でここまでの大敗をしたことは、その鼎の軽重を問われることになる。
勝ち誇ったスウェーデンはイングリア全域の割譲とポメラニアからの撤退、多額の賠償金を請求してきた。

・・・が、チュートン騎士団はそれを受けず、これに勝つ方策を考えた。
''焦土作戦''である。


#ref(焦土作戦.jpg)

徹底した焦土作戦は功を奏した。
スウェーデン軍は補給も受けられず、ただただ首都ケーニヒスベルクを目指し進軍する。
そしてスウェーデンが疲弊したところを、軍の集結を終えた騎士団が突いた。


この戦いでスウェーデン軍はほぼ壊滅し、一挙にスウェーデン全土を蹂躙すべく進軍をはじめた騎士団だったが、
ここで驚くべき知らせを受ける。
ハンザ同盟、騎士団に宣戦布告。
#ref(ハンザ介入.jpg)

結果としてスウェーデンとは白紙和平で手を打つほかなく、騎士団はハンザ同盟を深く恨むこととなる。
団長アルブレヒトは激怒の余り教皇を動かし、ハンザ盟主トーマス・フォン・デア・フェヒテを破門させたという。

もっともハンザ同盟の動員できる陸軍は極めて少数に留まり、スウェーデンやロシアのそれと比べると貧弱なものであった。
呆気なくハンザを叩き伏せた騎士団は前ポンメルンと賠償で和平に合意し、なんとかこの窮地を脱したのである。

但し、騎士団には荒れ果てた大地が広がっており、焦土作戦の影響もあって反乱が頻発した。
それを抑える為に属司教法が制定されるなど宗教勢力との結び付きはさらに進行し、世俗国家への夢もまたしばらく遠ざかることになる。

七年間、騎士団は反乱鎮圧に多忙を極めたが、内乱にめどがつくと直ぐにロシアとの戦争は再開された。
今度の戦いではスウェーデンはもちろん、デンマークすら介入してくる酷いものであった上、
途中で団長アルブレヒトがロシアとの戦いで戦死、実績不十分のコンラートが臨時で相続するという悲惨な状況がオマケについていた。

#ref(コンラート団長.jpg)

新団長コンラートは政治の才はなかった。
外交についてもこれといってすぐれたものはなく、軍事についても一種の匹夫の勇であり、
戦略を考えるなど出来ない人物であった。
ただし、彼は戦術については―天下一品であった。
まず、それを示すのがこの軍事改革である。

#ref(軍事改革.jpg)

先年の対スウェーデン戦争での苦い経験は騎士団全員に残っている。
焦土戦術によって何とか勝利できたはものの、それでは打って出て勝利することは難しい。
そこで、スウェーデンのテルシオに対して対抗できる戦術を創出したのである。


しかし、先のスウェーデンとの戦争で騎士団はもう一つの事を学んでいたのである。
そう、領土は荒らすに任せ、相手が疲労したところを叩く。
所詮農奴共が死のうがどうでもよい。どうせロシアなりからまた引っ張ってくればいいのだから。
ロシアからさっくりウクライナの肥沃な黒土地帯を割譲させた騎士団は、軍をただちに西へ返し、デンマーク=ハンザ連合軍を完膚無きまでに叩きのめした。
#ref(完勝.jpg)

大敗したデンマークはゴットランドの領有権を放棄。
ハンザも多額の賠償を支払うことで合意した。
そして、スウェーデンもバルト海沿岸の領有権を放棄するだけでなく、カトリックへの改宗をも迫られた。

#ref(スウェーデン和平.jpg)

ネヴァ川の大敗をチャラにする圧勝である。
この戦い以降、スウェーデンやデンマークは騎士団を畏れ、外交的圧力をかけることはあっても、遂に七十年戦争に介入することはなかった。((たんに警告してくるだけになった。))

この後続けられた第四次対露戦争では、ロシアはカレリアを喪失。
モルダヴィアから撤退を余儀なくされた。

#ref(第四次和平.jpg)

そして第五次対露戦争は、フィンランドへのロシアの侵攻に介入したことで始まった。
ロシア軍は「コンラート方陣」にまるで歯が立たず、敗走を繰り返すのみ。
この戦いではロシアはクリミアとアゾフを喪失する。黒海の重要な港がロシアから喪われた。

#ref(第五次和平.jpg)

その余りに急速な拡大は相変わらず反乱を巻き起こしたが、
騎士団にとって反乱の鎮圧など日常茶飯事である。

その後、和平期間中にロシアがフィンランドに宣戦したことからまた騎士団はこれに介入。
トヴェーリとニジニ・ノヴゴロドを独立させ、グルジアを割譲させた。
以前とは異なり、もはやロシアとの戦いでは一方的にロシアが敗北するだけになりつつあった。
軍事技術においてロシアは圧倒的に騎士団に後れを取っているためでもある。
その余りにも強力な騎士団に恐れを為した教皇はひとたび団長を破門するが・・・。
#ref(破門.jpg)

間違いなく騎士団はルーシの地をカトリック化していることは世間に知れ渡っており、これによって団長の権威が傷つくことはなかった。

その後数年経たずに団長コンラートは亡くなった。後をレオポルト・ヴィルヘルムが継いだ。

#ref(レオポルト・ヴィルヘルム団長.jpg)

団長最初の仕事は独立したニジニ・ノヴゴロドへロシアが宣戦布告したことへの制裁から始まった。
結果は既に見えている。ロシアはコーカサスの支配権とウクライナの一部をを騎士団へ割譲、代りにノヴゴロドの併合は認められることになった。((間に合わなかった))

そのこともあってか、新団長は和平期間が過ぎるとロシアへの十字軍を再び起こした。
この戦いはまさにロシアの決定的退潮を示す戦いとして、七十年戦争の山場として記憶されている。

#ref(占領地.jpg)

この戦いでは、弱小国と化し追いつめられていたキプチャク汗国もロシアに与するなど、全ロシアによる防衛戦争の感すらあったが、
チュートン騎士団にとってそんなことは問題ではなかった。
騎士団は最初の一戦でキプチャク汗国を破って和平すると、ロシア攻撃に全力を注いだ。
そして、ウラルのふもとまで占領下に置いたのである。
ロシアが飲まされた条件は過酷なものであった。モスクワ大主教が率いる「自治地域」を認めさせられたのである((モスクワの独立))
#ref(和平.jpg)

異教徒たるキプチャク汗国に対する寛大な和平条件に比してこれは余りにも酷いとロシアへの同情の声が世間では上がり、
当時は'''「正教十字を見るくらいならハーンの馬の蹄に蹴られたほうがマシだ」'''と騎士団長がうそぶいたと言われる噂まで出たといわれる。

その後の対露戦争は特筆するに及ばない。
騎士団にとってやや予想外だったのは、独立させたモスクワ自治地域が必ずしも騎士団に協力的ではなく、
むしろロシア帝国を度々助けることが多かったことである。((ロシアに代わって正教の保護者になったため、ロシアを殴るたびに味方してくる))
とはいえ、騎士団にとってモスクワ等問題ではなく、賠償金を強いられる結果の終わるのが常であった。
さすがに騎士団といえどこの広大過ぎる領土を自ら管理することには自信がなく、一部のみでも間接統治するのが得策だったからである。((実態はたんなるBBRと縛りの関係である))
それだけでなく、チュートン騎士団はここで改革として、ルテニア人を幹部に取り入れることも行っていた。

#ref(同族文化.jpg)

分割して統治せよ。騎士団は統治技術についても過去より進歩していた。
自らこそルーシの中心と思いつつも、ロシア人やポーランド・リトアニアに虐げられてきたルテニア人を味方につけ、
その統治を円滑にしようというハラである。

この政策を最後に団長レオポルト・ヴィルヘルムは亡くなり、後をヴォルフガンクが襲った。

#ref(ヴォルフガンク団長.jpg)

在任中に反乱に対処するためか、ついにスラヴ系にも一定の権利を認める宣言が出された。
権利章典である。
これで国内を安定化させた騎士団は、再び新団長の為ロシアへ攻め込んだ。
これが七十年戦争最後の決戦となった。
ロシアは再び敗北。ついにカザフ地域からの撤退により地域大国としての力すら失い、わずかにウラル周辺の領土を残すのみとなった。
ロシアを滅ぼすまで、とは至らなかったが、これを以て第二次北方十字軍の完了と見る論者もいる。
少なくとも、もはや東方において騎士団を脅かす存在はいなくなったからである。
王号については多くの者が忘れていた。当初の世俗的極まりない目的は、崇高な宗教的手段にとって代わられていた。
これからの騎士団がどう動くかは、また別の話である・・・。

TIME:"2012-03-10 (土) 23:33:31"

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