[[大いなるもの、東方より]]


*ローマは滅ぼされるべきである。 [#q842a895]

'''1508-1580'''
'''オスマン二世は初めて皇帝と呼ばれた王である。彼の治世は8年間であり、全臣民は苦しみを知らず過ごした。'''
'''アフメト二世は深き井戸のごとき忍耐と智慧をもってカスティーリャを打ち破り、聖地エルサレムをアッラーの御手へ取り戻し、イタリア半島南部を支配下に置いた。'''
'''メフメト二世はローマを滅ぼし、アレクサンドリアへ攻め進んだ。まことにアッラーの嘉したもう、三賢帝の時代と呼ばれるべきである。'''

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***オスマン帝国の成立。 [#xab7efa4]

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|CENTER:オスマン二世即位時の版図|

 1508年、オスマン二世が即位した(7-8-3)。この王の業績は少ない。しかしただ一つ銘記されるべきは、かれの時代から''「オスマン帝国」''の名が正式に使われ始めた、ということである。すなわち、この皇帝の業績は少ない、と記されるべきである。

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|CENTER:帝国というのはスゴイのである。だから、オスマンもスゴイのである。|

 かれはまたコルフ島を併合した。この島が、次のアフメト二世の大戦争に大いに役立つことになった。


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***西方進撃の時代。 [#f4ed3c96]
 1516年、アフメト二世が即位した(8-3-4)。カスティーリャは第三次十字軍を起こした。アフメト二世は決意した。これを最後の決戦としなければならぬ。つきあっていられない。いまこそカスティーリャを叩くべきだ。だがどうやって?

 カスティーリャはコルフ島へ侵攻した。攻略された。海峡を渡り、30000のカスティーリャ軍がジャニナへなだれこむ。迎え撃つ。勝つ。カスティーリャ軍はコルフ島へ撤退する。カスティーリャ軍の補充がコルフ島に送り込まれる。またジャニナに攻めてくる。迎え撃つ。勝つ。これを10年繰り返した。

 すると、

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|CENTER:&ref(ss10.png);|
|CENTER:カステラさんだいじょうぶですか^^;;|
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|CENTER:&ref(ss11.png);|
|CENTER:グラナダ独立しちゃいましたね^^;;;;;;|
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|CENTER:&ref(ss12.png);|
|CENTER:アルジェも独立しちゃいましたね^^^^^^^^|
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|CENTER:&ref(ss17.png);|
|CENTER:カステラ内部崩壊m9(^Д^)プギャー|

 1534年、カスティーリャは内部から崩れた。戦争の終盤、カスティーリャは毎週のように白紙和平を懇願した。宮廷の床に額をこすりつけるカスティーリャの和平使節に、アフメト二世は「汝らはイーサーに取り成しを頼むが良い」とだけ返答したという。

 カスティーリャの崩壊により、オスマン帝国は東地中海の覇権を確実にした。アフメト二世は聖地奪還を決意した。マムルークはもはや敵ではなかった。1536年、エルサレムが地上におけるアッラーの代理人のもとへ戻った。

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|CENTER:この追加宣教師があとあと役立った。|


 われわれ凡俗は予想だにしなかったことであるが、アフメト二世の巧妙な策略はイスパニアを揺り動かしていた。アラゴンがカスティーリャに見切りをつけ、ポルトガルに継承されることを選んだのだ。これにより、イタリア半島南部のアラゴン領もポルトガルの一部となった。しかしポルトガルはこの地域の統治を維持できず、ナポリが反乱独立した。これを見逃すアフメト二世ではなかった。アドリア海を渡り、上陸した。併合した。ローマが見えた。

「あとは、わかっているな。」

 智謀の皇帝はそう言い残して死んだ。1548年のことである。


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***キリスト教は全ての源を失った。 [#d4586d77]
 メフメト二世が即位した(7-5-7)。新皇帝が何を欲しているか、世界すべての人間が明瞭に理解していた。1552年、''オスマン帝国は西のローマを滅ぼした。''
 
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|CENTER:おお、大悪魔はうちたおされた。|

 イタリアにイスラームの福音がもたらされた。メフメト二世は粘り強くイタリア半島の改宗を進め、ついに1575年、ローマのイスラム化に成功した。
 
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|CENTER:名実ともに唯一ぬにの宗教。|

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***皇帝の遺言。 [#zadf8cb0]
 さて、このころのヨーロッパ情勢を見てみよう。
 ボヘミアの伸張が激しい。ロシアも巨大化しているが、周辺諸国に押し込まれ気味である。グレートブリテンとフランスはおとなしい。イタリア北部を押さえているのはヴェネツィアである。

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|CENTER:フランスしっかりしろorz|

 ボヘミアが南下を始めた場合、オスマン帝国にはこれを跳ね返す国力があるとは思われない。サン・ピエトロ大聖堂がモスクに改築されていたこのころ、メフメト二世はしばしば深夜まで地図を睨みつけ、だまりこんでいたという。
 
 防衛に奇策は無い。ただ国力を付けねばならない。皇帝の決意は、おそらくこのようであったと思われる。かれはアレクサンドリアの奪取を命じた。マムルークはほとんど抵抗できなかった。
 
 「ボヘミアに…」。死の床でメフメト二世はつぶやいた。崩御の寸前、遠く「りお・で・じゃねいろ」へ送り込んでいた植民団が、特産品の「タバコ」をイスタンブールの親愛なる陛下のもとへ持ち帰った。しかし皇帝がそれを味わうことはなかった。1580年のことである。

TIME:"2010-11-13 (土) 10:29:42"

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