[[モンゴル再興 ~DWモンゴル汗国で世界帝国~]]


*統一後のモンゴルはちょっと違う 第6次対明戦争 1439年 [#abf197ed]

統一後の反乱やらを鎮圧しているうちに、また明の北伐が始まった。
もう6度目くらいだろうか。
だが…今度のモンゴルはちょっと違う!…と信じて反攻作戦に打って出る!
この度の民族統一で、わがモンゴルと明軍の扶養限界の差は遂に4万VS7万にまで縮まった。
今までいかに防戦するか、またいかに朝貢額を減らすかという消極策を取ってきたが、
ついにクンボルジギン・ハーンは明軍に対して本格的な反攻を行うときだと判断した。
すなわち明の土地、黄砂舞う中華、中原の地への侵攻である。
もう定住の民の思い通りにはさせない。
覚悟を持って華北の地へ逆侵攻をかける。

*明軍迎撃戦 1439年 冬 [#ufcc1610]
服属したオイラト、チャガタイ氏族の兵と共に東に向かう。
ただし、懸念点は多数あった。
先だっての大戦での傷がまだ癒えていない。
人的資源は約1万程度、完全に回復状態が2万5千なので不安になる量だ。
月間の回復量は約1000.1年で約1万強の回復なので、人的資源が満タンになるまで2年ほどかかる計算となる。
とにかく間髪おかず戦いが始まったので金も人的資源も足りない。

何しろ明は相変わらず8万の人的資源と、うなるほどの黄金を蓄えている。
長期戦は明らかに相手に分がある。

そこでカーンはまず徹底的に国内戦に持ち込み相手の損耗を狙う作戦に出た。
自分の国で戦うのと相手の国に乗り込んでたたかうのでは消耗が段違いだ。
まずは相手の主力を平原で向かえ撃ち、その後逆侵攻をかける。

その間いかにこちらの損耗を抑えつつ戦うかが勝負のカギだ。
こちらは扶養限界にすら達していない約3万強、敵は7万。
以前に比べればだいぶマシになったとはいえ実質2倍の敵に立ち向かわなければならない。

**激戦の果てに 1440年 [#nb83f4ec]

敵先鋒の主力を敗退させ、その勢いのまま華北になだれ込み3つの洲に強行をかけ陥落させる。
攻略目標北京はもう目前まで来ている。

|&ref(mongo27.jpg);|
|華北諸州に侵攻を開始する。|

*限界点 1441年 [#o93e1e6d]

しかしモンゴル軍の攻勢もここまでだった。
資金も人的資源もついに尽き果てる。
さらに悪いことに、北京攻略軍が隙を突かれ壊滅、
モンゴル軍は約半数の兵を失い、2万まで損耗してしまう。

一方、3万まで落ち込んだ兵をまたたく間のうちに回復、
6万まで兵を戻した明軍が再々反攻を開始する。
せっかく切り取った州が奪還され、中部地域は明の別動の師団が制圧。
さらに旧チャガタイ領では反乱が勃発、
元の木阿弥どころかそれ以上のひどい事態なるかと思われた。


だがその時、承徳がわがモンゴルに完全服属したという報が入る。

|&ref(mongo28.jpg);|
|ついに北京の目と鼻の先、承徳を奪取!|

遂に明から土地を奪い取ることに成功!
即時に再び朝貢をする条件で講和に持ち込む。
大苦戦であったが大局的には大きな一歩を踏み出すことに成功した
だがこれからが正念場だ。
西には再びナショナリスト、狂信者たちが我が物顔に各州を食い荒している。
これを解決しつつ、軍の立て直しを行わなければいけない。
インフレも絶賛上昇中だ。
苦戦はまだ続く。


*クンボルジギン 逝く 1441年 [#td4bd74e]

戦が終わり戦勝の喜びにあふれる中、
クンボルジギン・カーンは静かにその生涯を閉じた。
父の事業を継ぎ、明への服従に耐えモンゴル統一、そして明への侵攻を初めて成功させたカーンの35年の治世が幕を下ろす。
だが遊牧の民の宿命、たちまち新領地に以前にも増して反乱の嵐が吹き荒れる。
父の遺志を継ぎ、明への服従に耐えモンゴル統一、そして明への侵攻を初めて成功させたカーンの35年の治世が幕を下ろす。
だが遊牧民の宿命は死を悼む間もない。
新領のすべてに以前にも増して反乱の嵐が吹き荒れる。
新君主、トゥルイ・ハーンの手腕が試される時が来た。

|&ref(mongo29.jpg);|
|すぐれた政治力、外交力をもつトゥルイには期待したい|



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TIME:"2012-07-29 (日) 22:26:33"

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