[[プレイレポ/ボルジアの血族]]

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#ref(Cesare d'Este.jpg,nolink)
 伝 チェーザレ王の肖像画

**小話:慈悲王の才 [#n1cf6858]

彼に、父に勝る軍才があったわけではなかった。
彼が、曽祖父の如く外交に才を示したわけではなかった。
彼が、「大叔父」のように統治に目覚しい有能さを示して
難題を次々と処理したというわけでもなかった。

だが、彼には、教皇であった曽祖父、
「大叔父」ヴァレンティーノ公、
そして、ボルジア家を再び興隆させた父、

この三者のいずれにも勝る資質があった。

すなわち、生来より身につけた王者としての振る舞いによる、
他者を惹きつける魅力である。

またその人柄は「大叔父」ヴァレンティーノ公と比して慈悲に溢れたものと賞賛され、
同名の2人の区別のために、ヴァレンティーノ公を残酷公、イタリア王を慈悲王と称するようになった。

**第一節 [#c6462c14]

#ref(Seminara.jpg,nolink,right,around)

フェデリーゴの死後、ナポリは一層混迷を深める。

未だ年若く、名をかのヴァレンティーノ公と同じくする以外はさしたる見所もないとの評判であったチェーザレを侮って、
イングランド派、アラゴン派が再び策動を始め、ナポリの覇権を巡って再び血みどろの争いが繰り広げられた。
チェーザレはいきなりの難局に立たされることとなる。

#ref(ナポリ情勢.jpg,nolink)
 高い反乱リスク、激烈な安定度コストと不安定の極みにある

**第二節 [#j0ff0b3c]

#ref(Joseph_I_Holy_Roman_Emperor.jpg,nolink,right,around,40%)

カール五世の後を継いだ皇帝ヨーゼフ一世は若くしてその聡明さを世に知られ、((9-9-7))
特に、即位後僅か数年にして、先の戦争で膨れ上がっていた勢力の完璧な統御に成功したことで、
外交と統治の才は父帝をも上回っているとの誉れを得ていた。

広大な勢力圏、強力な陸軍、そして若く英邁な統治者。
これらに恵まれたハプスブルク家の未来は今後も明るいものと思われた。

・・・・・・ところが、運命は突然に暗転する。

1563年初頭、ヨーゼフ一世は流行病にて急死。

嫡子無く、突然の死であったことから後継争いは混乱し、
どうにか従弟マティアスがハプスブルク家当主として立つが、
皇帝位の維持には先二代の蓄財を放出して尚足りない程の莫大な選挙費用が掛かった。

新皇帝マティアスは当初プロテスタントとの融和を望んでいたとも伝わるが、
結局はカール五世、ヨーゼフ一世と同じく、その治世を通じてプロテスタントとの対立に苛まれることとなる。

#ref(Lucas_van_Valckenborch.jpg,nolink)
 マティアス帝 カール五世の弟フェルディナントの息子

**第三節 [#y76627f8]
かくして帝国が混迷するのを横目に、チェーザレは少しずつその能力を発揮し始める。

戦闘で打ち破ったイングランド、アラゴン支持派の処断を緩やかなものに留め、
彼らを従えることで、滞っていた政務を実行する官吏の確保が出来たこと、((ゲーム的には、フェデリーゴの時代はナポリを10年位占領しただけなので、領有していたイングランドとの戦争はずっと続いていたのですが、チェーザレの代になって戦争が勝利に終わり、加算された威信で勢力圏を増加させ、結果として政務官が増えた、という流れです。))
戦闘がほぼ完全に収束し、プロテスタントのカトリックへの復帰の目処がついたこととでナポリの安定を成し遂げた。

#ref(Krunidba_Celestin_Medović.JPG,nolink)

1569年、7月9日。父フェデリーゴの死去から6年を経て、
チェーザレは、父と同じくナポリ大聖堂にて正式にナポリ王に即位する。

戴冠式は、多くの列席者を得た壮麗なものであった。

**第四節 [#n7a82bcd]

中世を通じて、イタリアは小国が分立し、それぞれで相争い、統一性とは程遠い状態に置かれていた。
チェーザレの治世で特筆すべきは、これを解消する端緒を開いたことである。

支配下の諸地域の税制を統一したことや、フェデリーゴが作り上げた軍制を発展させて、
徴募した兵士を地域ごとに分散したままで部隊とする((いわゆる郷土連隊主義))のではなく、
全体に混合した上で調練を行う等、その中央集権化政策は多岐に渡った。

それらが実り、チェーザレが老年に差し掛かる頃には、一定の「統一された国家」としての兆しが現れていた。

#ref(Cultural Unity.jpg,nolink)
 支配下の中核州から、現時点で存在しない国(つまり併合した小国)の中核主張を除去する指令。
 別段実利はないが統一感を出せて気分が盛り上がる。

**第五節 [#o8107e3d]

ボルジア家と、カスティーリャ王家であるトラスタマラ家の間には伝統的な友好関係があった。

元々ボルジア家の始祖はイベリア半島の出自で、カリストゥス三世は
若いころアラゴン王アルフォンソ五世(トラスタマラ家の出)に外交官として仕えたことがある。

また、カトリック両王こと、イザベルとフェルナンドの結婚に許可を与えたのはアレクサンデル6世であった。

#ref(ferdinand_and_isabella.jpg,nolink)
 2人は又従姉弟であったため、結婚には近親婚の赦免が必要だった。



さらに、ヴァレンティーノ公はプロテスタント化したフランスに代わってカスティーリャを同盟者として選び、

フェデリーゴの治世においてもそれは踏襲された。
アラゴン-ポルトガル連合にカスティーリャが挟撃された際には、
同盟に基づき資金と兵の援助を送っている。



16世紀後半、アラゴンはアヴィシュ家出身のマルティン二世の治下にあった。

#ref(歴代アラゴン王.jpg,nolink,80%)

 歴代アラゴン王
 Ferran II トラスタマラ家 カスティーリャと同君連合
 Carles I~Jaume III サヴォイア家
 Marti II アヴィシュ家(ポルトガル王家)

((Carles Iの没時に同君連合は解消されてカスティーリャにはトラスタマラ家が復帰しています。また、サヴォイア家はスコットランド王位も獲得しており、二章の北から~の戦争はイングランドとスコットランドの領土争いが切っ掛けとなってイタリアまで波及してきました。))

ここで、トラスタマラ家は、かつて自らの下にあったアラゴン王位を奪還せんとし、
ボルジア家は、ナポリの対岸、シチリア島を欲した。((ナポリ王位は本来シチリア王位でありうんたらかんたら、という主張ができるのかはナポリ王フェルディナンド1世の即位の経緯上疑問があるので、シンプルな表現に留めています。))




かくして利害が一致して同盟は更新され、最終目標をマルティン二世の領土を二分することとする陰謀が企てられた。

そして、それは然程の時を要せずして結実する。
根本として覆し得ない兵力の差が存在したことに加えて、
地中海の各地に分散したアラゴン領は一体性に乏しく、
散らばって配置された軍は各個撃破されていくこととなる。

#ref(1569-72年での領土の変遷.jpg,nolink)
 ボルジア家はシチリア島、サルデーニャ島を獲得。
 トラスタマラ家も領土を拡大した。
 ハプスブルク家の混乱の隙に再びヴァロア家が勢力を拡大している。


こうして、ついにイタリア地域でボルジア家の支配下に無いのは
北部のハプスブルク家の影響下の諸国を残すのみとなった。

**結 [#t7e467cf]

#ref(Imperial_crown_and_scepter.jpg,nolink,80%)


'''1577年、盛夏。'''
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'''チェーザレは遠征が成功した暁には、Rex Italiae――イタリア王――を'''
'''自らの称号とすると定め、即位のための王冠と錫杖とを整えて北部征服のための遠征軍を発した。'''

'''同年秋、遠征軍と、皇帝の救援軍は'''
'''ロンバルディア平原、カルチナートにて決戦を行う。'''
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#ref(Calcinato.jpg,nolink)
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'''既に国王や大貴族自らが戦場に立つ時代は過ぎ、'''
'''対峙するは軍才を以て成り上がった将軍達。'''

'''華やかな傭兵たちが覇を競ったルネサンスの戦場は彼方へと消え、'''
'''国王の名の下に集められ、統一された訓練を施された兵士達が命を削りあう。'''
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'''かくして、イタリアから中世の遺風は去り、'''
'''近世が始まろうとしていた。'''

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&size(20){''ボルジアの血族 完''};
TIME:"2012-06-08 (金) 21:34:38"

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