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*アレクサンダー1世の治世(管理7、軍事6、外交3) [#i03b1bd7]
#contents

**文武に秀でた君主として [#k6f80a3b]

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 アレクサンダーは幼少の頃より俊才で知られ、父フェルディナントが政務を顧みなくなると父に代わり摂政として大公国並びに帝国の運営を行っていた。

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 摂政時代には統一的交易方針の採用や、軍備の一新を行ったことで知られるが、皇帝即位後には時をおかずにパーダーボルンに諸侯を招集し、''一般税の施行(神聖ローマ帝国の政策)((皇帝の税収を+50%する恐ろしい政策。帝国諸侯でプレイしている際に行われると税収-10%でたまったもんじゃない政策ですが。))''を宣言した。この税の導入に際しては、フランス王やオスマン家の脅威に備えるための防衛費に充てられるという旨の説明がなされていたが、実際にはオーストリア=バイエルン大公国の寺院建設費や工房建設費((この政策の他、奪った州がコア化するなどして税収が驚くほど改善したので全土に寺院と工房を作りました))にまで流用されていたようだ。

**度量衡の統一 [#z2c9419b]

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 皇帝としては一般税の導入を図ったが、オーストリア=バイエルン大公としては、度量衡の統一(州の政策)((全国の反乱率-0.5、交易・生産効率+10%、税収+5%))を行い、統治の効率化を図った。この度量衡の統一によって、大公国内では各地の交流が進んだが、経済の発展とともに宗教上の乱れも目立つようになってきたため、アレクサンダーは''礼拝の義務化''((3つめの国策。安定度ボーナスと「教皇への影響度」を+5%。革新主義にスライダーを振っているので「教皇への影響度」が低く中々枢機卿の支持が得られなかったので選択))を布告した。

**モデナ継承戦争 [#x1e00056]

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 モデナ公国は、オーストリア大公がローマで戴冠する際にはこれを先導するなど、オーストリアに接近することで発展してきた国である。この時代になると、帝国の南端を守る公国として諸侯の中でも一段高い位置におり、先の皇帝フェルディナントはモデナの公族から后妃を迎え、アレクサンダーを授かっていた。
 このためアレクサンダーはモデナ公位の継承権を有していたが、1483年にはこの継承権を大義名分にし、モデナ公国を手にいれんがため兵をイタリア中部へと向けることになる。(''モデナ継承戦争'')
 フランス王は当初これに難色を示していたが、&color(red){''フランス王のロートリンゲン公国の実行支配を黙認する''};ことと引き換えに、同意を得た。このことでアレクサンダーは帝国諸侯の反感を買うことととなったが意に解さなかったという。
 オーストリア=バイエルン軍に国を追われたモデナ公はカスティーリャ王の下へ亡命したが、かの地で憤死したと伝えられる。モデナ公を兼ねることでアレクサンダーは帝国の南半分を有する強力な君主となった。

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|CENTER:継承戦争後の1484年。ロートリンゲンの大部分はフランスに奪われている|

**フス戦争 [#a262b034]

 この頃、ハプスブルグ家の度重なる侵攻を受けたボヘミアでは、土地が荒れ果て人心は荒廃していた。ボヘミアでは皇帝に対する恨みがローマ教会へも向き、プラハ大学では「バチカンは皇帝に買収されたのだ!」と公然と批判する者まで現れ、ボヘミア王はこれを擁護する姿勢を見せた。

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|CENTER:教皇後見人になったのでボヘミアを破門。破門CBで宣戦布告。|


 この事態に憂慮したアレクサンダーと教皇は、ボヘミア王を破門。彼らを異端と断じ、ボヘミアへと兵を進めた。この戦争はボヘミア軍の若き将軍フスの名をとり、''フス戦争''と呼ばれ、後の宗教改革の先駆けともいえる出来事であった。
 物量に富む皇帝軍であったが、銃器を欧州で初めて用いたフスの戦術に苦戦し、最終的には勝利をおさめたものの被害は大きかった。アレクサンダーはこの戦争を通じ、重火器の必要性を痛感し、ギャロウグラス歩兵の装備を改良し(''新ギャロウグラス歩兵''の採用)、1万の歩兵に対して1,000の''カルヴァリン砲兵部隊((陸軍レベル13。HttT以前だともっと後だったような気が?))''を配置するよう編成を整えた。

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|CENTER:戦後1494年のオーストリア。世界ではマムルーク朝の崩壊とロシアの建国が起きている。|

**HttT追加要素 勢力圏 [#mff1f2eb]

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 HttTで追加された要素に''勢力圏''がある。威信10を消費することで他国(ただし自分の勢力圏を持たつ大国を除く)を自分の勢力圏に組み込むことができるようになった。この勢力圏に対しちょっかいを出してくる相手に対しては、勢力圏CB(あまり使えないCBだが)を得ることができる。緩衝国を勢力圏にすることで、大国の雰囲気を出すことができるだろう。
 上の画像は、1490年前後のヘッセン方伯(フルダ家)の勢力圏。マインツやメックレンブルグを勢力圏としており、北部ドイツの盟主としての雰囲気がなんとな~く出てるような?

**内憂外患 [#lc0dd1b0]

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 アレクサンダーはフス戦争が宗教改革の序章にすぎなかったことを思い知ることになる。皇帝と教会の堕落した関係に異を唱える神学者が増え、皇帝に反対する(ロートリンゲンでフランスと妥協を行ったことや一般税の導入の影響も大きかったという)北部の諸侯の中には、神学者に同調し、改宗するものも現れ始めたのである(彼らは皇帝や教皇への抗議から''プロテスタント''と呼ばれる)。
 そしてフランドル地方では時を同じくして''改革派''と呼ばれるグループも現れ、カトリック世界からの分離を図っていた。こうした事態に、アレクサンダーは''帝国の改革((ver4.1以降では一つ改革を行うために皇帝権威値が50も必要であるが、諸侯が一人改宗するだけで権威値が-10。))を一時断念''せざるを得なかったのである。このような中でアレクサンダーは''ブレシアで公会議を開催''し、反宗教改革の色を鮮明にし、同時にカトリック教会改革の必要性を訴えたのである。(''対抗宗教改革の採用'')この席で、教皇は、カトリック教会の改革に尽力することを約束し、皇帝には''信仰の擁護者(Defender of Faith)の称号を授け''、カトリック世界を異端から守るよう要請したという。

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 このように帝国が宗教によって引き裂かれつつある中、アレクサンダーをさらに苦慮させたのがオスマン家である。この頃のオスマン家はマムルーク朝を破り、勢力を大きく拡大させていたが、北伐を再開し、ついにハンガリー王国を滅ぼしたのである。多数亡命して来たハンガリー貴族達がオスマン兵の残虐さを語ったこともあり、ウィーン市民の間では「キリストの死後1500年、いよいよ世界は破滅するのではないか」と終末論がささやかれる始末であった。

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|CENTER:1500年の欧州。宗教改革にオスマン家の伸張|



**北部ドイツ同盟 [#aa461e97]

 ホラント伯はネーデルラント地方の一領主に過ぎなかった。しかしハプスブルグ家縁の者が当主になってからは北部ドイツで勢力を広げ、16世紀には北部ドイツにおいてフラダ家のヘッセン公国と並び「帝国の北の双璧」と称えられるまでになっていた。デーン人やアングロサクソン人の王から帝国を守る防波堤の役割をも担い、伯の身分でありながら一目置かれる存在であった。
 宗教改革が始まったころのホラント伯は、ヤコバ(jakoba)・フォン・ハプスブルグであり、男勝りな性格の女傑であったという。このヤコバは宗教改革が始まると、初めこそ好奇心でプロテスタントの教義に触れたのであるが、これに傾倒してしまい、ついには領国の改宗まで行ってしまったのである。 これに同調したのが帝国北部のプロテスタント諸侯達である。彼らは、彼女を皇帝候補として担ぎあげることで結集し、北部ドイツ同盟を結成しアクレサンダーに対抗しようとしたのである。
 
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|CENTER:いつの間にか大きくなってたホラント伯|


 アレクサンダーは北部ドイツ同盟を討伐せんと兵を集めていたが、北伐を前にした1505年に没してしまった(脳卒中ではないかといわれている)。この知らせが北部ドイツ同盟に届くと同盟はいよいよ活気づき、北部諸侯の中には、「オーストリア軍を坐して待つよりもこちらから攻め込んで、オスマン軍よりも先にウィーンを炎でつつんでやろう」と広言を吐く者もいたという。

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TIME:"2010-02-25 (木) 23:33:13"

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