*ジョゼフ1世と30年戦争(1458-1491) [#g31b468a] #br **第4代ブルゴーニュ公 ジョゼフ1世(行政7・外交7・軍事6) [#q3317cf4] ''ジョゼフ1世''の治世は、相次ぐ遠征の繰り返しであった。 最初のいくさである対ブルターニュ戦争から最後のサヴォワ継承戦争までに要した年月は、 戦間期を含め、およそ30年。 このことから、これら一連の戦争は、「ジョゼフの30年戦争」と呼ばれている。 #br **ブルゴーニュ=ブルターニュ戦争(1460-1463) [#v23f5a31] 当時のブルターニュ公ピエール2世は才能に乏しく、臣民の間には主君に対する不信感が芽生えていた。 これを知ったジョゼフ1世は、ピエールとの間の姻戚関係を利用し、摂政の地位を要求する。 ピエールがこれを拒んだため、ジョゼフは、ピエールの政治的無能力を口実にブルターニュに 宣戦を布告。ここに、ブルゴーニュ=ブルターニュ戦争が勃発した。 だが、ブルゴーニュ公国の同盟相手であるイングランド、オーストリア及びアラゴンは、 この戦いをジョゼフの私戦とみなし、参戦を拒否。 これによって、先代フィリップ3世時に締結された対仏同盟は、わずか数年足らずで瓦解することになった。 単独での戦争を余儀なくされたジョゼフだが、ブルゴーニュ軍の動きは速やかであった。 遠征軍を任されたアンリ・ド・ブルジョワは、通行許可を取り付けてあったフランスを通過し、 ブルターニュ半島に侵入する。 ピエールの指揮の下に集ったブルターニュ公国軍は、アンリの前に敗北を重ねながらもしぶとく抵抗を続けた。 しかし、戦争の分岐点となったモルビアンの戦いの後、ピエールの軍隊は組織を維持することが 困難になってゆく。 これによって、ブルゴーニュ軍の任務は、各都市の包囲へと移行することになった。 1462年から1463年にかけてブルターニュ半島の主要都市は次々に軍門に降り、1463年2月に、 ついに半島全土はアンリの遠征軍の支配下に置かれた。 【''ブルターニュ戦争''】 |&ref(Bretagnewar.png);| |CENTER:日付は各州の陥落の年月を表す| 和解交渉に訪れたピエールに対し、アンリは「今後ブルターニュ公の統治は、ブルゴーニュ公の 『提案』を参考にしながら行われる」ことを要求した。事実上の属国化である。 だが、属国化に加えていくばくかの領土を割譲せざるをえないと予想していたピエールは、 このブルゴーニュ公の寛大な提案に「ひざまずいて感謝し、両国間の連帯が最後の審判の日まで 続くことを主イエスと聖母マリアにかけて誓った」、と当時の年代記には記されている。 ブルターニュ公に対し領土割譲を求めなかったことから、ジョゼフの意図は、文化が異なり、しかも ブルゴーニュから遠いブルターニュ半島の支配に労力を費やすことを避け、ブルターニュ公国の国力を残して おくことで、フランスを挟み込む形での強固な同盟を結成することにあったと考えられる。 事実、領土を保全されたブルターニュ公国は、その後ブルゴーニュ公国が繰り広げた戦争、 特にフランスとの戦いにおいて、最も信頼でき、数の上でも強力な援軍を送り続けたのであった。 一方のブルターニュ郷土史では、この戦争での敗北の評価は二分される。 半島の自立性が失われたことを嘆き、以降ブルターニュとは利害のない戦争に巻き込まれ続けたために 公国の国力は大きく損なわれたという否定的な見方は、愛郷主義者たちの間で一般的である。 これ以降ブルターニュとは利害のない戦争に巻き込まれ続けたことによって、公国の国力は大きく損なわれた という否定的な見方は、ブルターニュ愛郷主義者たちの間で一般的である。 だが、ジョゼフ以降の歴代のブルゴーニュ公が、ブルターニュ公国の併合には興味を示さなかったこともあり、 ブルターニュの独立は、ブルゴーニュ公の「保護」の下で実質的には保たれていたという肯定的な意見も 少なくはない。 #br **ジョゼフ1世の公国統治 [#gdeddb36] 好戦的なブルゴーニュ公として知られるジョゼフだが、在位中常に戦争に明け暮れていたわけではない。 父フィリップの国力増強政策も、彼はは継承していた。 この当時のブルゴーニュ宮廷には、シャルル・ド・ボーモン、ギヨーム・デュファイ、 フランソワ・ド・ロッシュバロンなどの優秀な顧問たちがそろっており、 行政および文化面でジョゼフの統治を支えていた。 【''1460年代の宮廷顧問たち''】 |&ref(Advisers.jpg);| |CENTER:このうちデュファイは実在の人物です| また、軍事面では、ジョゼフは兵力の増強に努める一方で、低地地方に海賊対策を命じた。 本来が内陸国であるブルゴーニュ公国には、海軍に関するノウハウが欠けていたが、州レベルで個別に 海賊行為に対応することで、アントウェルペンをはじめとする諸都市の交易を保護しようとしたのである。 このために要した費用は決して少なくはなかったが、ブルゴーニュ公国の財政を極端に悪化させるには 至っていない。 【''海賊対策''】 |&ref(Pirates.jpg);| |CENTER:2種類ある州政策のうち、これは大規模な方| #br **ウルビーノ防衛戦争(1470-1472) [#dc673915] ジョゼフにとって2つ目となる戦争は、ローマ教皇庁が相手となった。 ブルゴーニュ公は以前からイタリア北部の小邦の独立を保障し、この地で紛争が勃発した際には いつでも介入できるように目を光らせていたが、1470年に教皇庁の軍隊がウルビーノ伯領に侵攻したことで、 その機会は予想外に早く訪れることになった。 【''ウルビーノ防衛戦争の参戦国''】 |&ref(Papalstateswar.png);| |CENTER:この無謀な戦いによって、教皇の権威は大きく失墜した| ミラノをはじめとする北イタリア勢力がことごとくウルビーノ伯側についたため、当初より教皇の敗北は 時間の問題と思われた。 だが、当時のブルターニュにとって、イタリア半島深くに攻め込むことは、主に補給上の問題から困難であった。 そのため、ジョゼフは南仏の教皇領アヴィニョンの奪取を目論む。 2年後の1472年、教皇軍とイタリア諸都市の泥沼の戦いを横目に、ブルゴーニュ軍はこの都市を陥落させ、 講和を結んだのであった。 【''アヴィニョン近辺の勢力図''】 |&ref(Avignon.jpg);| |CENTER:14世紀ヨーロッパ史にはこの都市は欠かせません| アヴィニョンは、14世紀に生じたシスマ(教会分裂)からも分かるように、本来フランスとの結びつきが 強い土地であり、ジョゼフがフランス王に無断でこの土地を占拠したことで、当時のフランス王シャルル8世を 激怒させたという。 また、アヴィニョンの獲得によって南仏進出への野心が芽生えだしたジョゼフにとっても、フランス王の 存在は、より邪魔なものになりつつあった。 余談であるが、教皇と敵対したことが原因、というわけでもないだろうが、ジョゼフ1世は 父フィリップ3世が提唱した十字軍を撤回している。 【''十字軍の失敗''】 |&ref(Crusaderfailed.jpg);| |CENTER:だめでした| #br ----------------------------------------- MOD Magna Mundi Platinum 2(MMP2)の紹介 その2 本文中に出てきた海賊対策について。 MMP2以降では、沿岸州(特に交易中心地とその隣接州)にかなりの頻度で海賊が襲ってきます。 海賊に襲撃された州は、収入面で大きなペナルティを受けることになります。 襲撃頻度を下げるためには、州レベルまたは国レベルで、海賊対策の政策を選ぶ必要があります。 どちらも政策選択時に資金がかかるうえに、恒常的な防衛費として州からの収入が減少し、さらには 最大船舶保有数も減少してしまうため、海賊対策は財政面、軍事面との関係を考えた上で、 個々の国ごとに考えていかねばなりませんが、沿岸州が領土の大部分を占めるような国では、 国レベルで、それ以外の国では州レベルで対応するのが効率的なようです。 [[滅びなかった公国(ブルゴーニュ)]]にもどる/[[フィリップ3世と富国強兵]]にもどる/[[ジョゼフ1世と30年戦争 その2]]にすすむ/ TIME:"2010-11-26 (金) 01:47:43"