[[カンガルーはいない]] [[カンガルーはいない/やっぱ十字軍でしょ]] *マキシミリアン1世 [#d7896aa5] マキシミリアン1世の治世は永く、かつ重要な歴史事件が多いので2つに分割します。 治世 **1450年次の勢力 [#hb8ecacc] |#ref(1450.jpg,around,1450年の勢力図);| |CENTER:1450年の版図| ***国力比較 [#t085a343] |国名|収入|人的資源|兵力|その他| |&color(red){''オーストリア''};|52.4|24K|22K|兵力の上限は40K| |&color(green){''ブルゴーニュ''};|38.4|40K|58K|破門中| |&color(red){''カスティーリャ''};|35.4|28K|45K| | |&color(green){''マムルーク朝''};|33.1|61K|42K| | |&color(red){''キプチャク汗''};|31.6|43K|42K| | |&color(green){''イングランド''};|27.7|21K|44K| | |&color(red){''ペルシア''};|26.1|39K|24K| | |&color(green){''ブルターニュ''};|20.4| | | | |&color(red){''ポルトガル''};|20.0| | | | |&color(green){''リトアニア''};|19.1|45K|53K| | |&color(red){''オランダ''};|18.4| | | | |&color(green){''トランシルヴァニア''};|18.4|17K|31K| | |&color(red){''スウェーデン''};|18.0|12K|21K| | |&color(green){''モスクワ''};|18.0|30K|28K| | |&color(red){''アルザス''};|16.7| | | | |&color(green){''ヴェネツィア''};|15.7| | | | |&color(red){''ポーランド''};|15.0|19K|25K| | |&color(green){''スイス''};|14.9| | | | |&color(red){''フランス''};|14.7|37K|34K| | |&color(green){''オスマン''};|14.0|3K|20K| | ***ちょっと補足 [#j977e5d7] 収入の1/3を金山に頼っているオーストリアがリードしている。 技術格差の無い現在、兵力で同等以下のオーストリアがマムルーク朝に勝つのは、何らかの策を仕掛けないと至難の業である。 ボヘミアがランクインしていないのは不思議な話。兵力は38Kぐらい所有している。 **ブルゴーニュとの戦い [#ve80db38] #ref(フランス戦争.jpg,right,around,押されてる); 1449年。ブルゴーニュがフランスに宣戦布告した。 オーストリア・フランス連合軍は十字軍の最中であり、ブルゴーニュの奇襲は成功した。 ウィーンでマクシミリアン1世とベンノが対応を協議した。 「ベンノ。ブルゴーニュがフランスに侵攻した。フランスとブルゴーニュの兵力差は明らかである。どうするべきか?」 「閣下。フランスは、十字軍に賛同してくれた唯一の国です。たとえ不利であっても、フランスを支援するべきです。」 「ブルゴーニュとの戦争となれば、十字軍はどうなるのか?」 「フランスが敗れれば、ブルゴーニュの目はドイツに向かいます。それに対しマムルーク朝が、我が国にせめて来る可能性は0です。ビザンティンにつくことすら難しいのです。十字軍は一時中止しましょう。」 「十字軍の部隊には帰国命令を出そう。ベンノ。そちにマムルークとの和平交渉を任せる。」 「御意」 #clear #ref(マムルーク和平.jpg,right,around,オーストリア十字軍失敗); マムルーク朝との和平交渉のため、外交使節団を組織した。もっとも、外交使節団といっても、ベンノ以外は通訳と書記官が各1名である。 アレキサンドリアにはヴェネツィアの商船で向かった。 当時のアレクサンドリアは、インド産香辛料の輸出港として繁栄していた。 入港直前、ベンノは、興奮した表情でアレクサンダーに話しかけた。 「この都市はすごい。ウィーンなど比べ物にならない。我々は、こんなすばらしい国を野蛮国と決め付けて侵攻したのか。」 同行した書記官はめまいを覚えた。こいつは、相手国のことを何も知らずに、この大遠征を行わせたのか。そもそも、エジプト出身ではなかったのか?もともと胡散臭い男だと思っていたが、ここまでひどいとは思わなかった。 マムルーク朝から完全に追い出されたのに領地を要求したり、勝手に攻め込んだのに損害賠償は一切払わないなど、和平の交渉は難航した。 マキシミリアン1世が病気と言う知らせで、外交使節団は帰国したっきりアレクサンドリアに戻ってこなかった。いつまでも、防衛の兵力を国境に貼り付けるのが嫌になったマムルーク朝が和平に応じたのは、交渉が始まってから1年以上経った1451年のことだった。 #clear **マキシミリアン1世倒れる [#w448717a] #ref(病気.jpg,right,around,政務不能); 1450年の冬。マキシミリアン1世が体調不良を訴え始めた。1月ほど経つと、病床から起き上がることもできなくなった。マキシミリアン1世には子が無く、後継者に指名されていた従弟のヨハン・レオポルドが実権を握った。 このとき、ヨハン・レオポルドは24歳。十字軍を成功させたマキシミリアン1世に比べ実績が無かった。 帰国したベンノを呼び出した。 「私は、公の従弟にすぎない。公には従兄弟は多数おり、私に実績が無ければ地位が脅かされる。ベンノ卿。何か良い策は無いか?」 ヨハン・レオポルドに尋ねられたベンノも苦しかった。十字軍は失敗し、和平も成り立っていないのである。 「ヨハン様。十字軍を実施したことにより、我が国は教皇聖下の信任を得ています。聖下のライバルであるボヘミア王((神聖ローマ皇帝インジフ2世フリードリッヒ・フォン・ルクセンブルクのこと 皇帝と呼ばず王と呼ぶことで地位を下げて呼んでいる))の破門を働きかけてみてはいかがでしょうか?」 「インジフか。それで、破門の理由は何だ。」 「十字軍に協力をしないということでよろしいと思います。今回の十字軍だけでなく、ビザンティンの救援にも、無縁でした。」 「ベンノ卿。貴公は策士じゃ。枢機卿への働きかけは私がやろう。ところで、それ以外に無いか。」 #ref(入居政策.jpg,right,around,ブレシアがオーストリアへ); 「金印勅書の制約で我が国は王と名乗ることができません。公を大公殿下とするのはいかがでしょうか。自動的に、ヨハン様が公爵となります。ヨハン公爵閣下、いかがですか。」 「ヨハン公か。それは、気持ちが良いものじゃ。」 ベンノは「単なる名称ではないか」と叱り付けたくなった。そんなベンノの気持ちを知らず、さらに不遜なことを言った。 「オーストリアは偉大な民族だ。イタリアが先進的文化といっているものが納得できない。ブレシアをオーストリア化する。」 ベンノは「そんなお金があるならば、十字軍なり、フランスの援軍に使うべきです。」と進言しようとしたが、すでに自己の発言に酔っているので、諦めた。 1477年まで続くブレシアの入居政策は、このようにして始まったのである。 #clear **ブルゴーニュの崩壊 [#g593c2f1] #ref(1456年.jpg,right,around,); 1449年に始まったフランスとの戦争は、不可解なことになっていた。 開戦時に約6万を有していた兵力が、3万強まで減少していたのである。 敗戦国が兵を失うことは多々あるが、敵の2倍弱の兵力を有する戦勝国側が兵力を半減することは、前代未聞である。 ジャンヌダルクなる少女が活躍したと言われている。しかし、ラ・ピュセルと言われているが、オルレアンのドンレミ村で1412年に生まれたのであり、当時は40歳前後である。少女とかラ・ピュセルとか言われるのは、年齢的に無理があるといわれている。 1454年頃に周辺各国がこの戦争に介入し、1456年にブルゴーニュは崩壊した。 オーストリアとフランスの同盟は、宿敵ブルゴーニュの脅威がなくなったため、解消された。 #clear **ボヘミア破門戦争 [#b988e6d4] #ref(ヨハン死亡.jpg,right,around,悪名高きヨハンここに眠る); オーストリアはブルゴーニュとの戦争から解放されたが、ロレーヌの介入により同盟国として参戦していたボヘミアは、まだブルゴーニュと戦争を続けていた。 ヨハン公はベンノを呼び出し、今後のオーストリアの方針について協議した。 「ヨハン公。ブルゴーニュが崩壊し、フランス地域の脅威はなくなりました。1460年頃には、十字軍の提唱が可能になります。ここは、次の十字軍のために国力を充実させてはいかがでしょうか。」 「相変わらず十字軍か。十字軍は異端を弾圧する意味もある。破門したボヘミア王と異端の教えを信じるボヘミア人に対する十字軍を行う。」 「我がオーストリアがボヘミアを支配すると言うことですか?」 「支配?違うな。ジェノサイドだ。イベリア半島のレコンキスタの様にボヘミアの異端を追い払い真のドイツ人国家とするのだ。」 崇高な精神の前にベンノは、返す言葉が無かった。 1455年にオーストリアはボヘミアに侵攻した。ボヘミア軍のほとんどは、ブルゴーニュの地にあり、オーストリア軍は無人の荒野を進むように占領活動を進めていった。 同年8月11日。ヨハン公は、フス派の狂信者に襲われて死亡した。 #ref(ボヘミア和平.jpg,right,around,寛大な和平); マキシミリアン1世は永く病床にあり、実質的な支配者であったヨハン公の暗殺は、オーストリアに動揺を与えた。マキシミリアン1世には、子、兄弟などの近親者はいないため、後継者の選定は困難を極めた。 翌年にマキシミリアン1世の従兄の子であるマキシミリアン2世が選ばれた。当時10歳であり、ベンノをはじめとする側近達に祭り上げられた後継者にすぎなかった。 ヨハン公の死による混乱を防ぐため、ボヘミア南部の土地の割譲のみと言う非常に軽い条件でボヘミアと和平を結んだ。 #clear オーストリアとの和平によろこんだボヘミア人だが、幸せは長く続かなかった。 #ref(ポーランド介入.jpg,right,around,ポーランドのボヘミア介入); オーストリアの和平の3ヶ月後、ポーランドがボヘミア王の破門を理由に侵攻して来たのである。 すでにボヘミア軍は崩壊しており、ポーランドの侵攻に歯向かうすべは無かった。 農民は農具を、職人は工具を、その他の者も手にできるものを持って抵抗した。 しかし、有力な指導者がいなかったため、組織的な抵抗ができず、ドイツ民族の支配地はすべてポーランドの支配下に収まった。 #clear **オーストリア第2次十字軍 [#e0bfbd92] #ref(十字軍提唱.jpg,right,around,エルサレムを取り返せ); 1458年にカスティーリャがエルサレムの奪還を目指して、マムルーク朝に宣戦を布告したが、はかばかしい戦果を得ることはできなかった。 1460年にオーストリアの働きかけで教皇はマムルーク朝に対する十字軍を提唱した。 ついに、エルサレムを取り返すための十字軍が公式に認められたのであった。 自らをキリスト教の盟主と称している大国は、エルサレムを目指すことになり、エルサレム奪還レースが始まったのである。 エルサレムの近辺に住んでいるものにとっては迷惑以外の何者でもなかった。 #ref(第2次十字軍.jpg,right,around,やはりエルサレムは遠い); 1461年にオーストリアが十字軍を行ったが、前回の十字軍同様、ベイルートでマムルーク朝の軍隊に追い返された。やはり、力押しだけでは無理があるようである。 1462年にモスクワ公国もマムルーク朝に宣戦を布告した。 1463年にはオーストリアは撤退した。モスクワ公国も1465年には侵攻を諦めた。 エルサレムを取り返すために、マムルーク朝の南に存在するプレスビュテル・ヨハンネス((ポルトガル語ではプレステ・ジョアン))を希求する想いが強まった。 #clear **ルクセンブルク家 [#a132400c] 1400年には、ボヘミアとハンガリーを領有し、神聖ローマ皇帝を半世紀以上務めた名門の家柄であるが、1432年にハンガリーがトランシルヴァニアのラーコーツィ家に渡った。 1450年にボヘミア王のインジフ二世が破門になり、破門を名目にオーストリアとポーランドが侵略し、国土の大半を失った。 ボヘミアとその周辺を有する小諸侯に落ちぶれたが、皇帝としての威光は維持していた。 1470年にポーランドがボヘミアに侵攻した。時を同じくしてオーストリアも侵攻した。 こうして、中世の名門ルクセンブルク家は滅亡したのである。 ニコポリス十字軍に失敗し、国を奪われたジキスムント。 オーストリアの私的十字軍に協力をしないことで破門になったインジフ2世。 後世の歴史家は「十字軍の狂気がルクセンブルク家の命運を決めた」と言う。 [[カンガルーはいない/五大教会奪回]] [[カンガルーはいない]] [[カンガルーはいない]] TIME:"2010-11-23 (火) 14:44:46"