[[パラド出版社教科書]] *地中海の歴史 [#fe4dba28] **バルカン三国志 [#icb47250] オスマントルコは、急速に勢力を拡大しアナトリア半島を統一し、1453年には ''コンスタンチノープルを陥落''させ、東ローマ帝国を滅亡しヨーロッパに進出した。 その後も、勢力を拡大し、1454年にはセルビアを滅亡に追いやり、バルカン半 島への足がかりを固めた。 #clear &ref(バルカン三国志1475.jpg); オスマントルコのバルカン半島への浸透に驚異を覚えたローマ教皇は、ハンガ リーからクロアチアを奪取したオーストリアに、バルカン半島の権益と引き替え にオスマントルコ討伐の''十字軍''を命じた。 しかし、ボスニアに進出したヴェネツィアは、アドリア海やボスニアでの権益 を主張し、オーストリアとバルカン半島の権益を巡り戦火を交えることとなった。 この戦争で、オーストリアとヴェネチアの国境が主戦場となり、バルカン半島 に戦力の空白域が生じたため、オスマントルコは、易々とバルカン半島に進出で きた。 #clear &ref(バルカン三国志1485.jpg); これに対し、ポーランドがローマ教皇の呼びかけに賛同し十字軍に参加した が、時すでに遅く、オスマントルコのバルカン半島支配が確定した。 この時代の歴史家マキャベリは君主論の中で「君主は、天下の大事には自国 の利害を無視してでも、立ち向かうものである。」と述べ、オーストリアとヴェ ネチアの両国の行動を非難している。 **イタリア戦争 [#ta1ea684] ルネッサンスによる芸術文化が花咲いたイタリアでは、開放的な風俗による 風紀の乱れが顕著になった。1498年には、秩序の維持を求める保守派の支持を 得たサヴォナローラがトスカナの実権を握り、芸術を弾圧した。 これに対し、芸術家の保護を名目にシチリアがオーストリアと連合して、ト スカナ・ヴェネチア連合に宣戦をした。 (''イタリア戦争'') #clear &ref(1500.jpg); 戦争は、シチリア・オーストリア連合が優勢であり、敗戦続きのトスカナで は、責任を問われたサヴォナローラが失脚し、シチリアに国土の東半分を割譲 した。ヴェネツィアは、シチリアとオーストリアに完全分割された。 #clear &ref(1520.jpg); シチリアを支援しているオーストリアがオスマントルコの侵攻により、イタ リアに常駐している兵を撤退した。また、180年戦争の激化でフランスやブルゴー ニュの関心がイタリアから遠のいたのを好機ととらえ、ジェノバに亡命していた ''マキャベリ''が、失地回復を求めるトスカナやアラゴンと連合してシチリアに 宣戦を布告した。 北からジェノバ、南からアラゴン、中央からトスカナのイタリア全土で総攻撃 をうけたシチリアは、ジェノバやアラゴンに国土を奪われた。 #clear &ref(1530.jpg); **ポーランド十字軍のコンスタンティノープルの奪還 [#i6de39af] バルカン半島は、オーストリア、オスマントルコ、ポーランドの3強に分割 されていたが、180年戦争によるフランスやブルゴーニュからの支援が期待できず、 イタリア戦争で同盟国のシチリアが崩壊したため、孤立無援となったオーストリ アはオスマントルコの侵攻により、国土が2分してしまった。 これに対し、ローマ教皇が、ポーランドに十字軍を呼びかけ、ポーランド・オー ストリア連合軍がバルカン半島からオスマントルコ勢を駆逐し、首都コンスタンティ ノープルも陥落させ、ヨーロッパからイスラム勢力の追放が達成寸前まで行った。 #clear &ref(1560.jpg); オスマントルコは、ロシアを平定したイスラム国家カザンに救援を求め、カザ ンがポーランド領のウクライナやバルト海沿岸に侵攻した。 そのため、オスマントルコから、クロアチアの独立やルーマニアやアルバニアを 割譲させるにとどまり、オスマントルコは滅亡の危機から脱出した。 #clear &ref(1565.jpg); **オーストリアの衰退 [#vebc38cd] ポーランドの介入で滅亡の危機を回避したオーストリアであるが、国土が各地に 四散しており、国内の統一が不可能であった。 イスタンブール陥落から20年後、オスマントルコがオーストリアを侵攻し、 ウィーンを攻略した。(''第一次ウィーン陥落'') #clear &ref(1585.jpg); オーストリアの衰退は確定的になり、10年後に再度ウィーンが陥落し、中欧の 大国としての歴史に幕を閉じることになった(''第二次ウィーン陥落'') #clear &ref(1595.jpg);