<先代マティウス1世><プレイレポ /A・E・I・O・U><次代アレクサンダー1世>
フリードリヒ1世ヴェンツェルが戴冠して(神聖ローマ皇帝としてはフリードリヒ3世である)、まず行ったのがマイセン伯領の整理である。フリードリヒの時代になると、マイセン伯領はその独自性を失い、オーストリア大公国の一部として機能していた。そこでフリードリヒは行政区分を整理し、マイセン伯領をオーストリア大公国の一部としたのである。
同君連合からの併合は被併合先の非コア州も、併合後はコア州となるのでお得。 |
フリードリヒは内政よりも軍事に熱心であり、民兵法(Decisons:Militia Act)を導入し強兵策を推し進めた。即位から4年後の1452年には早くもこの民兵法の成果が発揮されることとなる。
ルクセンブルグ家が没落した今、帝国はハプスブルグ家とヴィッテルスバッハ家が有力であったが、ヴィッテルスバッハ家はお家芸ともいえるお家騒動で団結することができず、ハプルブルグ家に水をあけられていた。そんなヴィッテルスバッハ家のバイエルン公国(実際にはバーデン・アンスバッハも手にし、古のシュヴァーベン大公を自称していた)で、またもや相続問題が起きたのであるが、今回は婚姻関係を通じ、ハプスブルグ家のフリードリヒにも継承権があったことが問題を複雑にしていた。
HttTでは同君連合のためのCBを入手できるようになったことで継承戦争を戦略的に行えるようになった。 |
フリードリヒは、自らの継承権を主張し(そもそもシュヴァーベン公はホーウェンシュタウフォン朝時代からのハプスブルグ家の称号のひとつでもあった)、バイエルンを手に入れるべく兵をすすめたのである。世に言うバイエルン継承戦争である。 軍事演習(国策)を積んできたことや民兵法の導入によって精強な軍となったオーストリア軍に対し、バイエルン軍は指導層がそもそも内部分裂しており、統制した動きを見せず、瞬く間に全土がオーストリア軍の支配下に入った。
ヴィッテルスバッハ家のお家騒動で民衆の心が離れていたこともあり、フリードリヒの支配はわりとすんなりとバイエルンの民に受け入れられた。ここにオーストリア=バイエルン大公国が生まれたのである。
オーストリア=バイエルン大公国。南ドイツの覇権を確立 |
ブルゴーニュ公国の崩壊後、西に目を向けたフランス王は、アキテーヌ地方を回復し、ノルマンディー公国やブルターニュ公国からイングランド勢力を追い出すことに成功した。勢いに乗るフランス王が次に目をつけたのがロートリンゲン地方であった。 フランス王は、往年の勢力こそ失ったものの失地奪還に燃える若きブルゴーニュ公をたきつけ、フランドルの権益を巡って、オーストリア=バイエルン大公国とブルゴーニュ公国との間で内紛を生じさせたのである。
アントワープ等の割譲を得た他、ライン宮中伯領の多くをバイエルン公国に |
フランドル地方で、皇帝フリードリヒがブルゴーニュ公と互いに争っている間隙を狙い、フランス王はロートリンゲン公国(ロレーヌ公国)に兵を進めた。ロートリンゲン公は、フランス王の強大な兵力を前に恐れ慄き、皇帝フリードリヒに救援を求めたのである。
フランスに対してはいくつかCBを持っているが、今回は同盟CBを使ってフランスに宣戦 |
フランス王軍も精強であり、皇帝軍と一進一退の攻防を続けた。南フランスでは皇帝軍が有利に事を運んでいたが、フランドルやロートリンゲン地方ではフランス王軍が優勢であった。しかし、フランス王が北に目を向けている隙をつき、カスティーリャ王がナヴァラ王位(フランス王が兼ねていた)を狙い北上を始めたことから、皇帝フリードリヒとフランス王は和解。エノー伯領及びドーフィネ公国の独立を得た。
ロートリンゲン紛争後の世界(1461年)。そろそろロシアが建国されそう。 |
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カスティーリャのおかげとはいえフランス王に勝利し、その威信を高めたフリードリヒはブレスラウに諸侯を集め、帝国改造のための次の一手を打った。すなわち帝国裁判所の設立(神聖ローマ帝国政策*1である。 これまで分権化が進み、裁判は各地の領主が勝手に行っていたのであるが、今後は帝国裁判所が帝国内の司法権を一手に握ることとなったのである。帝国諸侯のうち有力なものはハプスブルグ家縁の者になっており、フリードリヒが当初想定していたよりも円滑に議題が通ったという。 またこの頃から、オーストリア=バエイルン大公国と神聖(ローマ)帝国は一体のものとみなされるようになり、ハプスブルグ君主国ないしはハプスブルグ帝国と呼ばれるようになっていた(帝政へと政治体制を変更)。
フランス王との戦いやブレスラウ帝国議会によって自信を深めたフリードリヒは、ローマ教皇の嘆願もあり、十字軍を夢見るようになる。自身と同じ名をもつフリードリヒ1世(バルバロッサ)の英雄譚に少年のように心を躍らせたフリードリヒは、重臣の止めるのも聞かず、1474年、4万の兵を率い海路で聖地エルサレムへと向かったのである*2。この船出にはローマ教皇自らが立会い旅の成功を祈ったというが、ローマ教皇を動かしたのは、フランス王の策謀であったという説もある。フランス王は、十字軍を通じハプスブルグ家がその国力を疲弊させることを望んでいたともいわれ、後日談となるが、十字軍が失敗したと聞くや祝杯をあげたと伝えられている。
そんなフランス王の思惑など露知らず始まったこの十字軍は、これまでのそれと大きく異なっていた。ビザンツ帝国はすでになく、バルカン半島や小アジアはオスマン家の手にあったため、補給を海路に頼らざるをえなかったのである。しかも4万もの兵の補給を行えるほどの海軍を皇帝軍は有していなかった。
初期だとラテンとイスラムであまり能力差がないことを忘れていた… |
このような見切り発車で始まった十字軍は、オスマン家の介入もあり、エルサレム周辺とクロアチア地方で主な戦闘が行われた。クロアチア地方では、有能な皇族マクシミリアン将軍の活躍もあり2~4万の兵でオスマン軍4~8万をよく凌いでいたが、補給に劣るエルサレム遠征軍の末路は悲惨であった。
輸送船は10隻しかなかったので、歩兵40ユニットのうち歩兵10ユニットしか救い出せず。 |
初めこそ悠々と都市を解放し(イスラムからみると略奪であったが)、「エルサレム王国を再建設してやろう*3」とうそぶいていたが、マムルーク軍が結集し、反撃を開始すると連敗を重ね、ついにガザで包囲され、補給を断たれた上3万を超す兵が虐殺されたという。皇帝でさえも命からがら船で海上に逃げ、九死に一生を得る有様であった。このガザの悲劇によって皇帝軍は壊滅し、異教徒に対し金で和平を買うという醜態を晒す結果となる。第10回十字軍は何ら得るものもなく、イスラム諸国の恨みを買うだけで終わったのである*4。
十字軍の散々たる結果に気落ちしたのか、フリードリヒは政治を顧みることがなくなり、内政は専ら太子のアクレサンダーが行うとなった。オスマン家などのイスラム勢に比べると未だに技術的・経済的に劣っていることが明らかになったため、アレクサンダーは、統一的交易方針(国策)を掲げ商売を奨励する一方で、軍備を一新(ギャロウグラス歩兵の採用)することでオスマン家の侵攻に備えた。 多くの兵を犠牲にした苦悩からか、フリードリヒは晩年しばしば病床に伏せ、十字軍以前の覇気に満ちた姿はついに見せることがなかったという。享年60歳、穏やかな死であったという。