伝 フェデリーゴの肖像画
1535年夏。 この頃、前摂政ルクレツィアは流行り病を得て表に出なくなる。
床に伏しがちとなり、 顔色はそれ以前の美しい白肌と比べても一層白く、 透き通る程になっていた。
熱に苦しみ、また咳き込みがちではあったが、 不思議と当人の心持ちは明るかったようだ。
うわ言も苦しみを訴える内容のものではなく、
「もうすぐ、もうすぐまた会える・・・・・・」と 喜びの色のあるものだったらしい。
その死の直前、フェデリーゴ公が彼女の元を訪れて人払いをし、 長い時間語り明かしたとの記録が残る。
その内容については同時代ですら不確かな推測に依るしかなく、 今となっては完全に失われてしまっている・・・・・・
親政の開始後、フェデリーゴが直ちに始めたのは軍制の改革であった。
フランス-アラゴン両国によるナポリの再征服時、 壊乱するナポリ王軍にあって独り気を吐き、 大いにフェランテ王の延命に貢献した後、 その罪状によって追討を受け亡命してきた、
ナポリの有力貴族コンドゥルメ家の当主、 フランチェスコ・マリーア・コンドゥルメを*1元帥に任命し、
外征に耐えうる軍の構築を模索する。
コンドゥルメ元帥晩年の肖像
それまでのウルビーノ軍の編制は、 ヴェローナの戦い*2での戦訓を受けて、 野戦砲――支配下にあったフェラーラの工廠で盛んに製造されていた――を核として中央部に置き、 それを槍兵や銃兵が守護するという、 さながら移動式の要塞のようなものであった。
この編制は防御力が極めて高い特徴を持ち、 同数か、やや勝る程度の敵に対しては殆ど被害を出さずに退けている。
野戦後、都市城塞の包囲の段階になると大砲は絶大な効力を発揮し、 包囲戦を主とするイタリア内での戦争においては大変有効な編制であった。
一方、コンドゥルメ元帥の提言は機動力重視であった。
元帥がナポリ戦争で圧倒的に数において勝る敵軍をしばしば撃退したのは、 迅速に移動し、敵の防備が薄い箇所に部隊を集中させて 初撃で相手の指揮能力に損害を与え、 追撃戦にて戦果を拡大するという戦術によるものであったらしい。
先の編制は防御力こそ高いものの機動力には乏しく、 相手が敢闘精神に欠ける傭兵主体であったこれまでは 防御して居れば相手が攻めあぐね、砲の効果もあり敵を撤退させられたものの、 より強い敵軍と戦うにあたってはそうは行かない、と言うのである。
この提言に、当時、急速にマスケット銃が普及装備となって 銃を主体とした戦術が現実味を帯びたことが加わり、 フェデリーゴはそれまでのものとは全く異なる編制を考案する。
元来は歩兵中の7割程を占めた防御用の槍兵の規模を 5割弱程度にまで縮小。 その主任務を敵軍が崩壊した後の追撃用と定めた。
残りを火器で武装した銃兵とし、 槍兵と銃兵の比率を逆転したのである。
また、鈍重な砲兵の随行は取りやめとし、 状況に合わせて機敏に展開可能なように 移動速度に重点を置いた軽装が主体となった。
2通りの隊列の図。槍兵が最外部を取り囲んでいた以前の構造に対し、 防御力は下がるものの移動の自由度を獲得した。
また、フェデリーゴは、銃兵に単に斉射させるだけであったのを改めて 背面行進と呼ばれる戦術を編み出した。
まず、前列の兵が斉射した後、 その兵はその場に留まって装填するのではなく、 最後尾に移動してから装填を行う。 その間に後列の兵が進み出て斉射して交代、 また次の列が……と繰り返すのである。
これにより間断なく銃撃を行うことが可能になった。
フェデリーゴ自身が頻繁に訓練に参加して兵に親しまれることで忠誠心を獲得し、 このような部隊行動を行うための高い練度を成し遂げたとの逸話が残っている。
マスケット銃兵の装填の様子。当時の銃の装填手順は、 発射→火薬の計量→弾丸の投入→柵杖による突固め→照準→発射、と非常に時間がかかるものであり、 フェデリーゴの革新以前は密の高い弾幕を形成することは不可能とされていた。
兵の調練を終えた1542年春、 フェデリーゴは前年にフィレンツェがウルビーノの影響下を脱し、 ヴェネツィアと同盟を結んだことを咎めるため、 フィレンツェ市を攻撃した。
これに対し、ヴェネツィアは直ちに援軍を派遣することを決定。 ヴェネツィア陸軍とウルビーノ陸軍との対決は不可避となった。
幾度かの小競り合いを経た後、ついに決戦の時が訪れる。
片や、ヴェネツィアは20年前の復讐戦として。 片や、ウルビーノはかつてと同じく敵を地に叩き伏せるために。
――両軍は戦場としてヴェローナを選んだ。
ウルビーノ軍はフェデリーゴ公自身が総指揮。
ヴェネツィア軍は永年共和国に仕え、 対フランス戦役、対トルコ戦役等、 様々な戦場を渡り歩いた歴戦の軍人、 バルトロメオ・ダルビアーノが指揮を執った。
騎兵戦力において大幅に勝るヴェネツィア軍は 騎兵による突破を用いて序盤を優位に進めるも、 歩兵戦力は、数、練度ともに大幅にウルビーノ軍が上回っていた。
戦闘開始から数時間経過した後、 ヴェネツィア側の展開に伴って中央部が手薄になったのを フェデリーゴは見逃さず、集中砲火を加える。
敵が火力に怯んだのを見て突撃を指示するフェデリーゴ
これに虚を衝かれたヴェネツィア歩兵の中央集団はたまらず隊列を崩し、 突撃に対し無防備な本営を晒すこととなる。
バルトロメオの死
間もなく、ウルビーノ軍の突撃の波は本営にまで達し、 バルトロメオ・ダルビアーノは戦死。
指揮官を討ち取られたことによりヴェネツィア軍全体が混乱、 士気を大幅に減じて撤退を始める。
以後の追撃戦における損害比は、 もはや戦闘と呼んで比べるべきものではなく、 むしろ狩りと呼ぶ方が適切な程であった。
この戦いはヴェネツィア共和国の没落を象徴する契機となり、 また、親政の開始から余り日を経て居らず、 対外的には全く能力を知られていなかった フェデリーゴの威信を大きく高めることとなった。
カール五世騎馬像
神聖ローマ皇帝、カール五世の生涯は信仰と共にあった。 ・・・・・・すなわち、信仰の敵との闘いと。
彼が育ったネーデルラントは、 豊かな経済力と、洗練された文化を持つ先進地域であったが、 フランスと神聖ローマ帝国との境でもあった。
つまり、カトリックとルター派との争いの最前線だったのである。
この地のカトリック教会は、フランスや北ドイツから送られてくる ルター派宣教師との接触が多かったことから、 プロテスタント側の宗教改革に刺激を受けて、 対抗宗教改革と呼ばれるカトリック内部からの教会刷新運動の中心となった。
そんな中で育った彼は、自然、カトリックの教えを厳格に信奉し、 長じてプロテスタントとの対決姿勢を明らかにした。
帝位に登った後は、ブランデンブルク選帝侯国、ボヘミア=ハンガリー連合王国、バイエルン公国等、 プロテスタント諸侯との絶え間ない争いを制し、帝国内部に秩序をもたらした。
こうして後顧の憂いをなくした1546年、ついにルター派の最大の擁護者にして、 皇帝選挙での対立、反皇帝諸侯への援助等、事あるごとにハプスブルク家と対立してきた、 フランス王を討ち果たすための大軍勢を挙げる。
しかし彼には一つだけ弱みがあった。長年皇帝として支配して来たとは言え、 彼には曽祖父以前、皇帝に本来必須であった資格、「教皇による戴冠」が欠けていたのである。
フランスとの全面戦争に際し、これを自身とフランス王との私戦としてでなく、 カトリック対プロテスタントの聖戦とすることを望んだ彼は 教皇の承認を求めて、まず軍勢をイタリアに差し向けた。
すなわち、攻略目標は、教皇の座すローマまでの行く手を阻む、 ウルビーノ公フェデリーゴである。
南ドイツに集結していた皇帝軍は8万超、 ウルビーノは、支配下の小国の軍を総動員したとしても4万余。
皇帝軍が国境の山岳地帯を押し通って平原部に進出してきた!との報は宮廷を騒然とさせるが、 フェデリーゴは圧倒的な戦力差を前にしても動転せず、 冷静に状況の調査と皇帝軍の目標の確認とを命じる。
その後の知らせによると、物資の強制的な収奪等は行なっているものの、 守備隊の籠る砦を包囲する風はなかった。
これを受け、交渉の余地が十分にある、と見たフェデリーゴは中間地点のフェラーラまで足を運び、 カール五世重臣、ザクセン選帝侯モーリッツと会談の場を設ける。
ザクセン公、後ザクセン選帝侯モーリッツ。敬虔なカトリックであり、 皇帝の忠実な与党として対プロテスタント戦役で大いに活躍した
あくまで全カトリックの頂点としての立場を確定するため、 堂々としたローマへの進軍を求める皇帝の立場と、 無用な被害を受けたくないフェデリーゴの立場とでは折衝が難しかったが、
来る対仏戦への協力しての参戦と、ウルビーノ軍の大半を ロンバルディアの対仏国境近くに配置してローマまでの 安全な皇帝の通行を保証することとでどうにか妥結、 一旦皇帝軍はウルビーノ領内から退去することとなった。
明けて1547年初頭、ローマにて カール五世の壮麗な戴冠式が執り行われた。
同時に嫡子ヨーゼフがローマ王に選出され、 ハプスブルク家が次代の皇帝位を継ぐことが確実となった。
ついに、皇帝並びに配下のドイツ諸国、 イングランド、アラゴン、カスティリア、 ポルトガル、そして、ウルビーノ。
当時のカトリックの大国が軒並み同盟して フランスに当たる大戦が始まる。
対するはフランス王、フランソワ二世。
英邁なる父の名を受け継ぐ、 生まれながらの王者であった。
フランス王フランソワ二世
戦役は長引き、数々の戦いがヨーロッパ各地を舞台に繰り広げられた。
ロンバルディア、カタルーニャ、ノルマンディー、南ネーデルラント、フランシュ=コンテ、ボヘミア、・・・・・・
中でも、もっとも激しかった戦いは、1552年のエノーの戦いであろう。
この戦いにはフランス王フランソワ二世、神聖ローマ皇帝カール五世、 それぞれの君主が最高指揮官として参加しており、互いに凄まじい兵力をぶつけあう激戦となった。
戦いの前半において、フランス軍は連合軍を圧倒した。 熾烈な突撃の前に連合軍の防御陣地は次々に抜かれ、 一時はフランス軍の突端が連合軍本陣にまで達し、 カール五世さえ銃弾に晒される程であった。
・・・・・・ここで、カール五世が致命傷を負っていれば或いは結果は変わったであろう。 しかし、実際には軽傷に済んだことが勝敗を分けた。
カール五世が退却せず留まったことで連合軍の混乱はそこまでのものにはならず、 立て直しさえ成功すれば、フランス軍の延びきった戦線を押し潰すのは 兵力に優っていた連合軍にとって容易いことであった。