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ジローラモ・カエターニ時代

ヴェネツィア共和国第63代ドージェ(元首)ジローラモ・コルナロ・カエターニは、 能力的には実に平凡な人物(行政6、軍事3、外交5)であった。 しかし彼は「ヴェネツィアの中興の祖」と呼ばれる。 なぜならば、彼はヴェネツィアの重要な基盤を整えた人物だからである。 ヴェネツィア史において彼が元首にあった時代を「ジローラモ・カエターニ時代」と呼ぶ。

成立させた重要な法律・国策

そもそもカエターニがドージェに選出された理由は、 逼迫したヴェネツィア共和国財政の建て直しを期待されてのことであった。 就任直後に、宣教師派遣費用を抑えるため議会の反対を押し切って 『冒涜禁止法』を成立させた。

またマントヴァから徴税官を招聘し『酒税法』も成立させ税収基盤を確立した。

カエターニは、1405年に世界で始めて『国立銀行』を設立したことでも有名だ。 いち早く収入全体の10%を金貨に変えられるようになったため、 他国では硬直しがちな財政政策も、ここヴェネツィアでは自由度が高かった。

≪作者注釈1:冒涜禁止法≫  宗教政策の1つ。  採用には「元首の行政6以上」が必要。  「宣教師派遣費用ー6%」「安定度費用+5%」の効果がある。

≪作者注釈2:酒税法≫  政策の1つ。  採用には「元首の行政6以上」「財務官か徴税官を顧問にしている」が必要。  「税収+3%」「安定度費用+4%」の効果がある。

≪作者注釈3:第1の国策≫  「統治4」になると国策を1つ選べるようになる。

宗教政策

宗教政策を推し進めたのは、ヴェニエル、カエターニと2代のドージェに仕えた 神学者セバスティアノ・サン・パウロの功績が大きい。 宗教の統一は国の安定を図るとの信念のもと、 パウロはギリシア正教を信奉するアテネ、クレタ、アルバニア(のちにはゼタも)の 市民を次々に改宗させた。

また、この時代の全ての社会基盤は教会が中心であったにも関わらず、 ヴェネツィアにはいずれの地方にも立派な教会が建っていなかった。 このことを問題視したパウロは、巨費を投じて各地に寺院を建立させることを 1405年に議会に認めさせた。 このため、人々はささいなことでも相談できるようになり、 不満を感じてもすぐに解消するようになった。

この功績が称えられ、パウロは元首顧問を退いた後、 十人委員会からサンマルコ寺院の司教に指名された。

≪作者注釈4:寺院≫  「統治4」で建設可能。  「安定度費用ー5」の効果がある。

貿易政策

「貿易こそがヴェネツィアが生きる道である。」 が口癖だったカエターニが最も力を入れたのは、貿易圏の拡大である。

交易中心地をヴェネツィア1箇所だけ押さえておくだけで莫大な利益をあげられるよう 『ヴェネツィア通商同盟』への勧誘活動に力を入れた結果、 西はナバラ、北はノルウェーの毛皮占有権、東はリトアニアの小麦占有権とかなりの商圏を 手に入れることに成功し、統治の終わり頃にはヴェネツィア市場だけで年間100ドゥカートの 収益があげられるまでになった。 副次的な効果としては、交易中心地レベルも高くなったため、 ヴェネツィアの税収も高くなるという結果ももたらした。

【これは1450年のものですが・・・】

140002_ヴェネツィアの収益基盤.JPG

だが、このような行為を他の通商同盟国が面白く思うはずはなく、 ヴェネツィア商人はリグーリア、リューベック、ノヴゴロド市場から締め出されてしまった。

貿易商人を直ぐに送り込めるよう、現金はドゥカーレ宮殿の金庫に常に積まれていた。 1417年には、トレヴィザーノに交易拠点を開設し、貿易はますます盛んになった。

【宿場町】

141708_交易拠点開設.JPG

≪作者注釈5:通商同盟≫  「重商共和制」国家のみが形成可能。  「通商同盟」加盟国は、通商同盟の交易中心地で取引を行う。  「通商同盟」加盟国間での競争はない。  「重商共和制」国家は、外交を通じて他国を「通商同盟」へ招聘することができる。  「重商共和制」国家は、外交を通じて、通商同盟に加盟していない国から特定の交易品1品目の「独占交易権」を得ることができる。

≪作者注釈6:交易中心地レベル≫  その交易中心地での貿易額100ダカット当たり1レベルで算出。  (例えば、貿易額1520ダカットならば、交易中心地レベル15。)  1レベル毎に、交易中心地のある都市の税額が+2される。  他にも「人的資源」「人口増加率」が影響を受けるようですが、  関連性がよく分からないので、誰かヘルプです・・・。

都市政策

カエターニはヴェネツィアに石橋をかけた人物としても有名である。 14世紀までのヴェネツィアは、ラグーナとラグーナとの間の行き来はゴンドラを 使う以外に方法がなかった。 しかし、貿易量の拡大に伴い交通量が多くなると、石橋を掛ける要望が強くなってきたため、 1414年、カエターニは工兵隊に命じて『首都の改善』を行った。

【工兵隊活躍!】

141410_首都改造.JPG

軍事政策とオスマン帝国、そして・・・

統治の初期にナポリと争い、イピロスを独立させたのは有名な話であるが、 結局はオスマン帝国がイピロスとコルフを侵略するのを 黙ってみているしかなかった。 兵力3,000の国家が兵力52,000の国家に対抗するのは愚の骨頂であったからである。

とは言え、自らなんの軍事行動もしなかったわけではない。 アルバニア地方の近隣であるゼタの住民から、建国以来続く内乱からの救援要請が きたときには、軍事行動を起こしゼタを併合している。 但し、この行為は同盟国オーストリアの機嫌を甚だしく害し、直ちに同盟を解消された。 カエターニは智謀家ニコロ・コンタリーニに命じ、同盟を再成立するよう交渉させたが、 オーストリアが応ずることはなかった。 ニコロはこの交渉のせいで過労と心労のため倒れ、帰らぬ人となった。

軍事力の重要性を痛感したカエターニは徐々に軍拡を行い、 常時1万の兵力を擁することができるまでとなった。 ヴェローナ侵攻の準備が完全に整ったわけだが、 これを不満に思ったオスマン帝国から『警告』を受け、 カエターニは進軍を命ずることができなかった。 このため、ミラノへの宣戦布告は随分あとの時代まで行われないこととなる。

1421年、カエターニは新たに同盟国となったボヘミアから、 ポーランド侵略に対する防衛戦参戦要請を受けた。 「ボヘミアの国力は我が国の防衛力に直結する。」 との言葉を残し、カエターニは自らヴェネツィア軍を指揮しボヘミアに遠征したが・・・ 1422年、彼は遠征先で流れ矢に当たり、北の大地から戻ってくることは二度となかった。

次話「No.7 ポーランド史への影響と帝国加盟(1422年4月-1425年7月)」につづく 前話「No.5 イピロス解放戦争(1404年7月-1405年5月)」にもどる タイトル「アドリア海の女王」にもどる


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