大航海時代(前編)(1499-1515年)

衝撃

1499年11月、商都ヴェネツィアの金融街であるリアルト橋界隈は、 ハチの巣をつついたような大騒ぎとなった。 「バスコ・ダ・ガマ艦隊が、インドからリスボンまで胡椒を持ち帰った。」 という一報が入ったのだ。

【インドまで海がつながっていることが判明した・・・が詳細不明】

15000101_の世界.JPG

  ヴェネツィアの優位性は、胡椒の取扱をほぼ独占していることにあった。 ヨーロッパへの交易ルートは、アレクサンドリア経由で入ってくるものがほとんどであり、 ヴェネツィアは、「アレクサンドリアーヴェネツィア」間の定期航路を確立させることで、 他国よりも優位にたち、独占を確保したのである。

だが、バスコ・ダ・ガマの航海成功により、喜望峰をまわればインドまで海がつながっていることが、 はっきりと分かる形で証明された。 インドから直接胡椒を手に入れる手段があるとなると、その優位性は根本から揺らぐことになる。 この事件以降、ヴェネツィアの商業的地位は日に日に落ち、他国の交易中心地で席を奪われることが 多くなった。

ジャンピエロ・デ・ブラツィオ

ジャンピエロ・デ・ブラツィオは、英国航路の船乗りであった。 寄港地のリスボンで、たまたまバスコ・ダ・ガマ艦隊の帰港に出くわし、 人々の熱狂を目の当たりにした。 ガマ艦隊の乗組員から酒場で話を聞くうちに、 「これからはインドの時代だ!」 という思いが高まっていった。

ブラツィオは、ヴェネツィア政府に対しインド航路開拓の支援を求める書簡を送った。 しかし、本国からは断りの返答が返ってきた。 実際、本国ではどのような対策を打つのが効果的か、判断に苦しんでおり、 また、大西洋側から大洋に出て行くのでは、地理的にも不利であるとして、 支援を躊躇したのだ。 ならばせめて通行許可だけでも、と、ブラツィオは両国政府に働きかけ、 1500年2月、ポルトガルからヴェネツィアに対する通行許可を認めさせた。

その後、ブラツィオは、英国航路の船乗りをやめ、リスボン航路の船長となった。 アフリカ方面で受けそうな商品を仕入れては、リスボンでアフリカ航路向けの商船に売った。 商売を通じて彼らから情報を仕入れては、本国政府にその詳細を綴った書簡を送り続けた。

1512年3月、ついに十人委員会は、 「ヴェネツィアの商業的地位が下落した今日、新規市場の開拓が重要である。」 との方針の下、新たな国策として『新世界の探索』*1を採用し、 その艦隊長として、ジャンピエロ・デ・ブラツィオを任命した。

1513年1月、探索船「タンブルラノ号」が進水し、ブラツィオ艦隊はゼタを出航した。

アフリカ西岸探検

1513年2月、ブラツィオ艦隊は、ポルトガル領マデイラに到着した。 ブラツィオ艦隊は、マデイラをベースとしてアフリカ西岸の調査に着手する。 その目的は、「インド・アフリカ方面への交易中継点にふさわしい土地を探す」 というものであった。

その結果、判明したことは、カーボヴェルデ、トラルザは既にカスティーリャが 支配しており入植は不可能であるが、 リオデオロ、アルガンは最近他国が入植に失敗したため、急いで人を送りこめば、 まだ植民する余地がある、というものであった。

本国政府は直ちに植民方針を決定し、入植者を送り込んだ。 未開の地ということもあり、なかなか上手くいかなかったが、 1514年6月にリオデオロ、同年9月にアルガンへの入植が成功した。

ブラツィオは、その後もアフリカ沿岸沿いに調査を進めたが、 その結果判明したことは、

ということだった。

【アフリカ西岸探索中】

15150101_の世界.JPG

  その頃、コロンブスが「西インド諸島」を発見したとの情報が入るようになっていた。 本国政府は、西回りでのインド航路が成立するか、事の真偽を確かめるべく、 「西インド諸島」の調査をブラツィオに命じた。

1515年9月、アルガンを出航したブラツィオ艦隊は、西に進路を向けた。

(No.21に続く)


次話「No.21 大航海時代(後編)(1515-34年)」につづく 前話「No.19 プロテスタント革命3ー破門(1496-1510年)」にもどる タイトル「アドリア海の女王」にもどる


*1 ≪作者注釈:第4の国策と「新世界の探索」≫第4の国策は「統治17」で選択可能。「新世界の探索」には、「探検家と征服者を採用できる」「植民可能地域が+50%」の効果がある。

トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS