ヴィッテルスバッハ家には、1356年の金印勅書で選定された7選定候の1つライン宮中伯プファルツ選帝侯がいる。 ヴィッテルスバッハ家は、同族内でしばしば内紛を繰り返しており、ゲーム的には地方分権MAX、王位僭称者たくさんと言ったところであろうか。 分割相続では、所領が細分化されて立ち行かなくなるし、長子相続だと後継者争いが起きる。 相続でもめるのは、古今東西変わらないんですね。 まぁ、スウェーデン人は、そんなことは興味がないらしく、プファルツの分家としてバイエルン地方をまとめている扱いである。
ヴィッテルスバッハ家は、本家にライン宮中伯プファルツ選帝侯がいる名門であり、分家とはいえ、ドイツでは、それなりに認められいる。 同じドイツの名門であるパプスブルグ家から皇女を娶る事ができ、エルンスト1世は、天にも昇る境地であった。 しかし、新婚初夜、エルンスト1世は地の底に叩きのめされた。 「本家がいる限りは、どんなにがんばっても2番手が精一杯でしょ」 これは、痛烈と言うしかない。物事の真意をついており、しかも変えようがない。いったい自分はどうすればよいのか・・・・ 「相手が選定候なら、皇帝になったら」 目の前の女性は聖女ではなく、間違いなく魔女だろう
エルンスト1世は、宮廷の偉人*1とプファルツについて協議した。 偉人の一人ウィルヘルム・フォン・アーマンシュペルクは、次のように献策した。 「プファルツには、フランケンと言う飛び地があり、わが領に接しています。我が領土と宣言しても問題はないでしょう。」 1400年4月1日、バイエルンはプファルツに宣戦布告した。
この戦争は、プファルツ側に隣国ヴュルツブルグがついたため、バイエルンは2方面作戦を余儀なくされた。 開戦当初は苦戦したが、1401年3月に長子マクシミリアン・ヨーゼフが誕生したころには、ヴュルツブルグの兵力は壊滅しており、時間はかかったもののプファルツを屈服することができた。
1402年11月23日、プファルツを下しフランケンを領有したエルンスト1世は意気揚々と帰国した。 凱旋した夫を出迎えた妻は、不吉なことを口にした。 「神からお告げがありました。『ドイツは、ホーエンツォレルンに支配され、滅亡する』と。」 不安を覚えたエルンスト1世は、翌日、アンハルトへの侵攻を開始した。
ところが、何の縁故もない国がアンハルトを愛する会を結成してが参戦してきた。 兵力は、バイエルン9,000に対し、アンハルトを愛する会44,000(騎兵24,000、歩兵20,000)である。 会のメンバーは、会長ホラント以下、ブラバント、フリースラント、チューリンゲン、チュートン騎士団である。 翌1403年6月11日にアンハルトが、この世から消滅したにもかかわらず1405年12月までアンハルトの復活を訴えていた。 「オランダ人の狂気は、ドイツ分裂に専念してほしい」とは、ブルゴーニュ公の言葉である。
参考:ブルゴーニュ 1406年ブラバントに宣戦布告 同年バル併合、1407年ブラバントからブラバン・エノーおよびリンブルフを割譲、トリアー併合
1408年1月5日。バイエルンが、プファルツに戦線を布告した。 「エルンスト1世は、ブルゴーニュの拡大を恐れ、ドイツの結集を目指そうとした」と将来の歴史書には書かれているが、実際のところは、そんな大志を持っているわけではなかった。 ただたんに、ヴィッテルスバッハ家で1番になりたかっただけである。 ドイツの統合や教皇からの独立は、時の当主が、その時々の政治的な判断をもって対応しただけである。
翌年7月26日にプファルツは無条件降伏した これにより、選定候の票が4票となり次期神聖ローマ皇帝になる可能性が高まった。 ところが、1411年12月に病で亡くなった。 プファルツには勝てたが、ボヘミアにも病にも勝てなかったのである。
バイエルンがフランケンに侵攻しているさなかに生まれたのが、マクシミリアン1世である。 父であるエルンスト1世が亡くなった時、10歳の子供であり、政治は宮廷の偉人とエルンスト1世の皇后である皇太后が運営することとなった。 ところが、即位して1年経った1412年10月13日に驚くべき知らせがやってきた。 神聖ローマ皇帝であるボヘミア王が亡くなり、次期皇帝にマクシミリアン1世が即位することになったのだ。 国政もままならぬのに、いったいどういうことであるのだろうか。
選定候を含むドイツ諸侯は、ボヘミア人から帝位を奪い返したいことと、オーストリアのような強大な君主が現れるのを危惧したのである。 父エルンスト1世が達成できなかった偉業は、こうもあっさり実現してしまったのである。
神聖ローマ皇帝は、教皇との戦いの歴史と言ってもよい。 マクシミリアン1世も、例外とはいかなかった様だ。 1414年8月9日、教皇に破門されたシエナが、教皇から宣戦布告をされたのである。 自ら破門をして討伐軍を起こすのであれば、最初から十字軍でも提唱すればよいのである。 教皇の本心は、教皇領の拡大である。
教皇の本心を見抜いたバイエルンは、シエナ側に立ち、教皇に戦線を布告した。 教皇はアラゴンを味方につけたが、神聖ローマ帝国領内からの同調者は0であった。 マクシミリアン1世は幼少*2の為、先代エルンスト1世配下の将軍アントン・モラヴィツキーに指揮を委譲した。 アントンは、手堅い用兵を心がけており、王道の軍隊で対応した
1415年、教皇との戦いが一段階した時点で選定候であるヘッセンから后を迎えた。 しして、翌1416年3月に成人したことを契機に親政を開始した。
そして、最初の敵は、またも教皇である 次は、モデナに侵攻した教皇を討つ為、フェッラーラとともにイタリアに侵攻した。 教皇軍は教皇自らが率いているが、皇帝であるマクシミリアン1世は、親征をすれば、教皇と同格になるため、今回もアントンが将軍として軍を率いた。 1417年に、教皇と講和後、フェッラーラから側室を迎え、イタリアににらみを利かせた。 これら一連の戦いをイタリア戦役と呼び、今後も続いていく。
1418年には、マインツと結びついた貴族を財産没収し国外追放にした。マインツは大司教の統治下にあり、教皇の手先であることは、誰の目に見ても明らかである。
1418年に、チュートン騎士団がメクレンブルクに侵攻した。 チュートン騎士団は、アンハルトを守る会でも暗躍した邪悪な集団であり教皇と結びついている*3。 ダンツィヒに軍を派遣するとともに、チュートン騎士団のライバルであるポーランドと同盟し、教皇、チュートン騎士団のラインと対抗した。 バルト海の覇権を握る争いに手を染めた第一歩であった。 この戦争中にポーランドは、ワラキア、モルダヴィアと戦争をしており、そちらにも軍を派遣した。 1420年 リガを独立させ和平
1422年にブレーメンにデンマークが侵攻した。 デンマークは、スウェーデン、ノルウェーを従える大国である。 この時点では、バルト海の覇権をめぐり、お互いにチュートン騎士団とも対立*4しており、海に面していないバイエルンにとっては、まったく意味のない戦いになった。 アントン将軍が「次はフランスにでも行くだろう」とこぼしたと言われるように、ローマから、モルダヴィア、リガ、ユトレヒト半島と各地を転戦している。 ドイツ国内では、ハンザ同盟間の通商戦争が大規模化しており、神聖ローマ帝国の限界が感じられる時期であった。
後世、バルト海攻防と言われた覇権争いの主要メンバーがそろった瞬間である。
1425年にチュートン騎士団からリガを保護*5し、1428年には、チュートン騎士と連携し、デンマークと争っている。1429年には、この戦争にハンザが介入し、制海権を握ることができたため、同年にホルシュタインを独立して和平を結んだ。 この戦争で負けたデンマークの力が低下し、かつて同君連合を組んでいたスウェーデンが拡大していくことになる。 また、ハンザが拡大し、他のドイツ諸侯が警戒をするようになった。
神聖ローマ皇帝に就任するためには、選定候として票を持つプファルツは必要であったが、皇帝に就任し実績を重ねてしまえば、そのような1票は必要がなくなった。 1425年、名門ライン宮中伯のプファルツは、金印勅書依頼の皇帝選出の役割を終え、バイエルンの一部となった。
後世の歴史家が、神聖ローマ帝国の解体が始まったのは、この時であると言うが、妥当な話であると思う。 王道の道/皇帝として 王道の道