<先代アルブレヒト4世><プレイレポ /A・E・I・O・U>
アルブレヒト4世が絶命した後、オーストリアの統治は摂政会議によって行われた。摂政会議はミラノ公国との和平を結ぶこと尽力し、その後はアルブレヒト5世の成人まで内政に専念することを取り決めていた。しかし、1410年、同盟を結んでいたポーランド王が、ハンガリー(ルクセンブルク家)に攻め込まれる。「ルクセンブルク家の横暴許すまじ!」との声が宮廷内で高まり、摂政会議はこの声に押される形で、ポーランド王側について参戦することを余儀なくされた。この戦争は、同盟国ポーランド、モダヴィア、ザポリージャ対して、敵側は、ハンガリー、バイエルン選帝侯、ブランデンブルグ選帝侯、ラグーサという形で行われ、当初の兵力は拮抗していた。 まずオーストリア軍は、宿敵ヴィッテルバッハ家のバイエルンへと兵を進め、これを打ち破る。オーストリア軍の執拗な追撃作戦のために、バイエルン軍は全滅に近い有様とあり、開戦1年後にはわずかな守備兵を残すばかりとなったという。バイエルン公アーンストのこのような不甲斐なさを目にし、ライン宮中伯ルードヴィヒ(ヴィッテルスバッハ家)はバーデン公アウグスト(同じくヴィッテルスバッハ家)を誘いバイエルンへ攻め入った。 こうしたヴィッテルスバッハ一族の間で骨肉の争いが始まったことでバイエルン戦線はひとまず決着がついた。バイエルンはアンスバッハの独立*1を認めることに同意し、ポーランド・オーストリア軍との講和に応じた。 バイエルン戦がひと段落ついたこともあり、摂政会議は、同盟の盟主ポーランド王を救援するため、ハンガリーへと兵の一部を送ることを決定した。
このカトリック国同士での争いは新たな火種を生んだ。ハンガリーがポーランド・オーストリアとの戦争によって疲弊しているのを見たオスマン家が北上を開始したのである。異教徒とカトリックが手をとり合い、カトリック国を攻める形となってしまったため、ウィーンでも戦争の賛否が分かれた。 結局、休戦派が多数を占め、プレスブルグの割譲を条件にハンガリーと単独講和を結んだのであるが、これによってポーランド王の不興を買うことになる。ルクセンブルク家の皇帝ヴェンテェルは苦虫をつぶしたような顔でこの報を聞いたというが、先のフランス戦でオーストリアに多大な債務を有しているため、黙認するほかなかったという。オスマン家がハンガリーまで侵入してきたことに危機感を覚えたオーストリアは軍事演習制度(国策)を確立し、富国強兵を図ることとなる。
摂政会議終了時のオーストリア |
この頃のルクセンブルク家は、ルクセンブルク、ブランデンブルグ選帝侯を失い、ハンガリー・ボヘミアを拠点としているが、新たにブランデンブルグ選帝侯位を得たオルデンブルグ家と争っている ヴィッテルスバッハ家は、バイエルン選帝侯位、バーデン、ライン宮中伯、エノー伯を有しているものの一族間での争いが絶えない。
正統性(Legitimacy)は非常に重要な要素です。正統性が低い国と婚姻関係にあれば、王位請求権(claim crown)を得て継承戦争を起こすCBを手にいれることができます(スパイによっても手に入れられますが)。また、国内的には正統性の高低は、自国の安定度投資額や反乱率、宗教寛容度に影響を与えます。正統性は、イベントや威信、摂政会議であるか否か、他国との婚姻数などによって変化します。
HttTでは君主に家名が追加されました。正統性の低い国と婚姻を結んでいると、君主が死亡した場合に、自国の家名の者が新たに他国の君主となったり、同君連合へと発展することがあります。まぁ基本的には国内の有力貴族が後を継ぐことが多いのですが。 また、自国と同じ家名の国には、友好度上昇にボーナスがあったり、同じ家名の国と婚姻関係にあれば、同君連合へ発展することもあります。 君主名にマウスをあてると上の画像が出てきて、君主の死後、どういう結果となるかが分かるように改良されました。
1412年、アルブレヒトは摂政会議を廃し、親政をはじめた。 アルブレヒトが最初に行ったのは、父の敵であるミラノ公ジャンを討伐することであった。ジャンは6年前の敗戦後、ミラノ市近郊を有するだけの存在となってはいたが、ザルツブルクやナポリ王と密かに手を結び表舞台への復帰を画策していたのである。 皇帝ヴェンツェルがブランデンブルグ選帝侯(オルデンブルグ家)と争っている戦費をまたもやオーストリアが援助*2し、この見返りにイタリア北部に対し皇帝が介入しないとの確約を得た後、アルブレヒトはミラノ及びマントバに兵を向けた(イタリア戦争)。
Missionsで得たConquest-CB。宣戦布告で安定度は下がらない上に25%のBBRでロンバルディアが得られる |
ミラノ公国は、先のオーストリア軍の侵攻によって荒れ果て、軍の再編も道半ばであったため、短期間のうちに征服できるだろうとオーストリア上層部は楽観的に考えていた。 しかしナポリ王やジェノヴァ共和国、サヴォイア伯、トスカーニャ公といったオーストリアの拡大を喜ばない周辺国が介入・参戦してきたことによって、戦争は泥沼化し、オーストリア軍は歩兵1万(これは全軍の1/3に相当した)を失う大敗を味わうことになる。 この戦争の転機は、オーストリアとジェノヴァとの間で和約が成ったことに始まる。オーストリアがヴェネチアとの交易同盟を破棄し、戦後新たにジェノヴァと交易同盟を結ぶ*3ことを秘密条項にした上で、表向きは白紙和約の形で両国の和平がなされたのである。ジェノヴァの離脱によって、豊富な資金提供口を失ったイタリア諸侯に対し、オーストリアは皇帝からの債務返済が始まったこともあり、息を吹き返した。 イタリア戦争は、オーストリアと新たに同盟を結んだブルゴーニュ公の仲裁の結果、ロンバルディア、マントバのオーストリア領有を認める形で終結した。(Missionsを達成し、コア化)
1415年のヨーロッパ。フランスがイングランドに押されている。 |
イタリア戦争後、アルブレヒトは他の帝国諸侯との悪化した関係を修復するために多くの婚姻関係を結んでいくこととなる。こうした婚姻政策の結果、アルブレヒトはマイセン伯を同君連合として統治することとなった。
婚姻関係先の正統性が低く、友好度が高いと有利? |
しかしマイセン伯との同君連合が成立したことは、ハプスブルグ家が帝国内でひとつ頭抜けたことを意味し、他の諸侯からオーストリアはまたもや危険視されることとなった。 この余波は、意外なところで噴出する。皇帝ヴェンテェルが崩御した際、マインツ選帝侯の主催の下、選帝侯はフランクフルト市に集まり、皇帝選挙を行ったのである。ハプスブルグ家は帝位奪還の千載一遇の機会と捉え、ドイツ大法官であるマインツ選帝侯、イタリア大法官でもあるケルン選帝侯、ガリア=ブルグント大法官であるトーリア選帝侯の三人に加え、ルクセンブルグ家の皇帝に辟易していたオルデンブルグ家のブランデンブルグ選帝侯を抱き込み、皇帝位を伺っていたのである。しかし実際には、マインツ・トーリア選帝侯が約束を反故にし、ヴェンテェルの息子カール5世に投票したため、帝位はまたもやルクセンブルグ家のものとなったのである。
本当の理由は単にボヘミアが帝国諸侯防衛のために参戦し、選帝侯との友好度があがったから |
この背景には、オーストリア、スイス、北イタリア、マインツという広大な領土を有するアルブレヒトよりも、ボヘミア一国しか有さないカールの方が御しやすいとの諸侯の思惑があったといわれる。
神聖ローマ帝国では新たに帝国改造(Imperial Reforms)という概念と皇帝権威値(Imperial Authority)という概念が追加された。皇帝権威値は、帝国を改造するDecisionを実行するために必要で、帝国諸侯を他国から守ることや、併合された帝国諸侯を再独立させることによって上がる。他方、諸侯が併合されたり、改宗したりすると下がってしまい、帝国改造の道は遠ざかってしまう。帝国改造を順調に行っていけば、最終的に皇帝領と帝国諸侯領が一体となった神聖ローマ帝国へと変態できる。
皇帝選挙に敗れたアルブレヒトは、カールの即位を喜ばないハンガリー王(教皇後見人)を動かし、アクイレイア総司教を破門させた。教義を巡り、ローマ教皇との対立が絶えなかったと伝えられている・
アクイレイアがハンガリーの中核州を奪ったため破門されたらしい |
教皇の許しの下、アルブレヒトはアクイレイア総司教領へと攻め込んだ。しかしアクイレイア総司教は帝国諸侯の一員であり、教皇との仲が良好でなかった皇帝カールはこれに激怒。ここに 「オーストリア=マインツ、ブルゴーニュ、ポーランド」 対 「皇帝(ボヘミア)、ヴェネチア、アクイレイア、ジェノヴァ」との戦争(アクイレイア破門戦争)が始まったのである。
このうちポーランドは早々に単独和平を結ぶ… |
この戦争は、当初ボヘミアへ侵攻したオーストリア第1軍が皇帝軍に押され、ウィーン近郊まで皇帝軍の侵攻を許すこととなった。
皇帝軍はさすがに強く、一歩間違えばこっちが壊滅するところだった… |
しかしジェノヴァ、アクイレイア、ヴェネチアを征したオーストリア第2軍とブルゴーニュ連合軍がウィーンへと到着したことで持ち直し、ウィーンの戦い、ボヘミアの戦いを経て、エルツの戦いで勝負は決した。
誰が陛下を支えているか努々お忘れなさるなと言わんばかりの所業 |
皇帝軍は総崩れとなり、皇帝カールは廃位されないことと引き換えに、「シュレジエンをボヘミアから分離すること、ハプスブルグ家のスイス領有並びにマインツとの同君連合との再承認、ルドルフ建設公が称した大公位を認めること」などの大きな譲歩をせざるをえなかった。この戦争によって、大公位といった特別な地位や特権を認められたことに加え、金山(クライン地方、フリウリ地方)を新たに手に入れたことでオーストリアは更なる発展を遂げていくのである。
戦後の世界。ルクセンブルグ家がやや衰退し、ナポリ王がプロヴァンス公を継いだ |
ヨーロッパ諸侯がアクイレイア破門戦争の行方を固唾を飲んで見守る中、東方では古代ローマの流れを組むかつての大国がオスマン家によって征服され、その役割を終えた。 つづく