<プレイレポ /A・E・I・O・U><次代アルブレヒト5世>
ホーエンシュタウフェン家の断絶と大空位時代を経て、帝国は諸侯が覇権を巡り争う時代へと入っていた。
この時代、帝国諸侯の中でも特に有力なのは、
皇帝位やボヘミア王領、ハンガリー王領、ブランデンブルグ選帝侯領、ルクセンブルグ伯領を有するルクセンブルグ家 ライン宮中伯、バイエルン公領、ホラント等を有すヴィッテルスバッハ家 オーストリア公領を有するハプスブルグ家
の三家であり、ドイツ王位及び皇帝位を巡り、血みどろの権力闘争を繰り広げていた。
ハプスブルグ家(黄)、ルクセンブルグ家(紫)、ヴィッテルスバッハ家(緑);参考元wikipedia |
アルブレヒト4世の治世を語るにあたって、欠かすことができぬのが、スイス誓約同盟との戦い並びにその余波として行われたミラノ公との戦いである。 事の発端は、祖父アルブレヒト2世の時代までさかのぼる。祖父アルブレヒト2世は、誓約同盟との戦いに敗れ、ハプスブルグ発祥の地であるスイスを放棄し、オーストリアの経営に専念する道を選んだ。 その後オーストリアは、叔父のルドルフ4世(建設公)や、父アルブレヒト3世の精力的な治世の下で、ウィーン市を中心に繁栄を謳歌していた。
スタート時:ドイツの中では割と大きな勢力。 |
しかしスイスとは未だに政治・経済的なつながりが大きく、しばしば小競り合いが国境付近で起きていたのである。 そして、アルブレヒト4世の治世の末期には、ウィーン市の名士が些細ないざこざから、スイス誓約同盟に縁のある者の手にかかるという事件が起き、両国の緊張は高まっていた。
折しも皇帝兼ボヘミア王ヴェンツェル(ルクセンブルク家)は、フランス王と戦争中であり、オーストリアが戦費の一部を捻出する(War Subsidies)ことを条件に、オーストリアのチューリッヒ再領有を認めたのである。こうしてオーストリアとスイス誓約同盟、そしてその後のミラノ公との死闘が始まったのである。
スイス誓約同盟は、ヴェネチア共和国、トスカーナ公、バー(Bar)伯と同盟を結び、アルブレヒトに対抗するものの、諸国間の連携が取れず、さらに内部抗争が起きたこともあり、チューリッヒが再びハプスブルグの手に戻ることに合意せざるをえなかった。
誓約同盟戦争後:チューリッヒをコア州として手に入れる。ついでにトレヴィーゾも。 |
しかしこれに異議を唱えたのが、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティである。自らをカエサエルの再来だと称し、イタリア統一に野心を抱くミラノ公にとって、ハプスブルグのチューリッヒ領有は、到底認めることができないものであった。 他方、帝位奪還に燃えるハプスブルグ家にとっては、ロンバルディアやマントバの地はローマへ続く要衝(当時は、ローマでの戴冠こそが帝位の正当性を示すと考えられていた)であり、かねてよりその領有を欲していた(Missons)。 両者の思惑から矛を交えるまで、さほどの時は要しなかったという。ミラノ公がサヴォイア伯を攻めた間隙を突き、アルブレヒトは2万5千(うち騎兵1万5千)の兵をミラノ、ヴェローナ、ブレッジャへと三方から進めた。ミラノ公はこの急報が耳に入るや、サヴォイア伯と早々に和平を結び、兵を反転させ、オーストリア軍とミラノ軍はミラノ近郊で戦端を開いたという。 この戦闘は苛烈を極め、ミラノ軍の傭兵の矛がアルブレヒト公の横腹に突き刺さり、公は数日後命を引き取ったという。しかし、公の死にもかかわらず戦線を公族や将軍が必死に支えたことや、他のイタリア諸侯がミラノ公国へ攻め入ったことから、戦争自体はオーストリアに有利に運んだ。 最終的にはジャンのミラノ公領は解体され、ミラノ近辺を除いた所領の大部分がハプスブルグ家やイタリア諸侯のものになり、ピサの独立が承認された。
ミラノ戦争後:ミラノ併合までリーチ。BBRは+12 |
迂闊にも、敵の矛に死したアルブレヒトは後世から突進公と呼ばれている。
せっかくHttT版初AARなので、追加要素の紹介を逐次行っていこうと思います。 HttTでは、外交官やスパイに続き、Magistrate(行政長官)が追加されています。行政長官は、プロヴィンスの施策を行う際や、アドバイザーを雇うために必要な文化伝統値を向上させるために必要になってきます。 初期状態では、年に+0.2ぐらいだったりするのですが、プロヴィンスの施策を実行したり、政治体制をより近代的なものにしていくと増加します。
他にも大学を有していると、イベントで+1人(もしくは文化伝統値の上昇)入手できるので、非常に強力です。AARではミラノ公国からパルマ大学を奪ったことで、今後の展開が非常に有利になると思います。
HttTでは、教皇後見人になるために枢機卿を買収する手間がなくなりました。枢機卿が自国を支持してくれるか(Cadinal Chance)は、Papal Influence(教皇への影響力)によって決せられます。
Papal Influence(教皇への影響力)は、教皇領との友好度やBBR、(宗教関係の)国策、自国のスライダー(保守主義⇔革新主義)によって自動的に定まります。 枢機卿の支持数によってBBRの減少効果が得られる上、教皇後見人になった際に実行できる破門は非常に強力なCB(開戦のための大義名分)を与えてくれるので、教皇後見人になることは自国の戦略を進めるにあたって、考慮すべき重要な要素となっています。