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フランスの地図。赤のラインはトスカナ軍の侵攻路。
スペインは教皇庁の御者だったため、彼はマルタ島に亡命していた教皇に圧力をかけてトスカナ大公とフランス王を破門させた。 トスカナ大公は自分で擁立したローマの対抗教皇に依頼して、スペインと彼の同盟国を破門させた。
しかしマルタに亡命していた教皇は無力すぎて、その破門にはほとんど効果がなかったし、 トスカナが擁立したローマの教皇は人望がなさすぎて、同じく、その破門にはほとんど効果がなかった。
中世はもう終わったのだ。
フランス軍はよく持ちこたえた。 はじめパリにフランス軍は30000しかおらず、ブルゴーニュのスペイン軍は30000*2いたため、アレッサンドロ1世はフランス軍が無力化されるのはそう遠い出来事ではないと思っていた。
しかしフランス軍はスペイン軍の侵攻によく持ちこたえたばかりが、隙を見てブルゴーニュ方面のプロヴィンスを占領するといったことまでやってのけた。 そんなわけで、開戦後一年が経過しても、フランス軍とスペイン軍の主力はパリ近郊で対峙していた。 また、南仏のスペイン軍はトスカナ大公が殲滅したため、フランス軍は1000ずつの遊軍を組織して南仏のスペインプロビを包囲してまわることができた。 強襲のタイミングをこちらで決めることができないのは厄介だったが、トスカナ軍40000はこのフランスの包囲を援助して回り、1641年の春から1642年の秋にかけてスペインの城を10以上も落とした。
ここでアレッサンドロ1世は決断し、トスカナ軍40000を北上させ、パリに圧力をかけているスペイン軍30000*2と決戦することにした。 数的不利はあるが、パリ近郊で粘っているフランス軍主力30000を勘定にいれれば、数の上では互角以上だと計算したのだ。
トスカナ軍は高い規律と旺盛な士気に支えられた優秀な軍隊をもっていた。 彼らの陸軍技術は欧州最高峰で、歩兵、騎兵、砲兵の兵科はスペインやフランスに劣らない。 軍事演習、大陸軍、積極的戦地任官、国民軍といったNIをもち、マンパワーは180kを数える。
トスカナ軍はドルフィン、オルレアンから北上してイル・ド・フランスにはいり、パリ郊外に陣取った。 スペイン軍に動きはなく、30000*2のスペイン軍はそれぞれ別個にフランスの城を囲んでいた。 アレッサンドロ1世は各個撃破のチャンスと判断し、そのままスペイン軍を攻撃、敵の片翼を打ち破った。 スペイン軍は動揺してフランスの城の囲いを解き、陣形を再編成する。 アレッサンドロ1世は士気の回復を待って、もう片方のスペイン軍を攻撃、これも撃破した。
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パリ郊外の戦い
スペインは算を乱して後退する。 トスカナ軍はしばらく追撃を行ったが、スペイン軍が合流して反撃の姿勢を見せたために追撃を断念。 また、西地中海でスペイン艦隊が動きを見せたという知らせを受け、アレッサンドロ1世はトスカナ軍をイタリア半島に帰還させた。