1399年10月、ヴェネツィア共和国第62代ドージェ(元首)アントニオ・ヴェニエルは、壁にかけられた地図ーヴェネツィア共和国版図ーを眺めながら客の来訪を待っていた。 ヴェネツィアは建国以来、周辺国との絶妙なバランスを取りながら貿易立国としての地位を確立してきた。 その状況は現在でも変わらず、ヴェネツィア本国は、北にオーストリア、西にミラノ、東にアクイレイアと我が国よりはるかに国力の高い国に挟まれ、ひとたび本気で攻められればすぐに飛ぶような存在である。 また、エーゲ海沿岸の海外領では、近年急速に台頭してきたオスマン帝国の脅威を日に日に感ずるようになってきていた。
【1399年10月時点-ヴェネツィア地図】
「ドージェの資質は優れた船長と同様『舵取り』にある、か。」 ヴェニエルがつぶやいた時、来客を告げる声が聞こえた。 応接室に向かうと、そこには共和国ドージェ礼拝堂であるサンマルコ寺院の司教と若い神学者の2人が座っていた。
「これはこれは司教さま。わざわざ来訪頂かなくとも私の方から出向きましたものを、本日は何用ですかな。」 「ドージェ、本日は重大なお話がありお伺いしたのです。」 サンマルコの司教はいつになく緊張した面持ちである。 「ほう、一体どうしたのですか。」 ヴェニエルは、司教が緊張するのも珍しいと思いつつ尋ねたが、司教の次の一言で自分も体が強ばっていくのを感じた。 「預言を受けました。」
ヴェネツィアが他国と全く異なるのは政教分離が徹底していることであり、公式にはカトリック教会の要求を政治側が飲みことはない。 そのため、サンマルコ寺院の立場もカトリック教会の大聖堂ではなく、ドージェ礼拝堂としているぐらいだ。 しかし、サンマルコ寺院の預言を政策に生かした『舵取り』を行ってきたことが、結果として今日のヴェネツィアの繁栄につながってきた。 そのため、サンマルコの司教は預言を受けた場合は速やかにドージェに伝え、歴代のドージェは預言を『助言』として大切に扱うのが慣例となっていた。
「セバスティアノ・サン・パウロ、預言を読み上げなさい。」 セバスティアノ・サン・パウロと呼ばれた若い神学者は、預言の記された紙を広げよく通る声で読み上げた。
【神の思し召しにより、なすべきこと】
「ミラノと事を構えよ、ということですか。」 「我らは神の声を伝えるのみ。『舵取り』はドージェの領分であり教会の領分ではありません。 ただ『真なる教え』を信ずる者が多ければ、神は必ずヴェネツィアに微笑み、長きにわたる繁栄をもたらすでしょう。」 パウロは答えた。その声は、有象無象が巣食う政治の世界を長年生きてきたヴェニエルでさえ納得させる不思議な響きを有していた。 次の瞬間、ヴェローナの攻略がヴェネツィアにどれほどの利をもたらすか、そして、侵攻に向け何を準備すべきかヴェニエルの頭の中に明確に浮かびあがった。
「司教さま、本日は貴重な『助言』を有難うございました。」 「いえいえ預言をお教えするのは我らの重要な役目ですから。 ところで、ドージェ、本日はもう一つお願いしたいことがあるのです。」 「なんでしょうか。」 「ご存じの通り、我が国のエーゲ海沿岸は異なる教えを信仰している地域です。 パウロも申しました通り、『真なる教え』を信ずる者が多ければ神の加護を得られやすくなりましょう。 布教活動を推進するために彼をドージェの顧問に加えてはいただけませんか。 神学者であるパウロを顧問にすれば『真実の宗教の進歩法』を可決することも可能ですし。」
(ローマ(教皇領)の連中め、我が国への発言権を強めようとしているとは。) ヴェニエルは心の中で苦虫をつぶした。 (宗教なぞ何を信じていても構わないが、政教分離政策を快く思っていない連中に反乱を起こされては、戦争どころではない・・・か。 まあ、実際パウロには不思議な魅力がある。) 「それはいい申し出を。その件は、十人委員会に諮った上でお答えしましょう。」
サンマルコの司教とパウロが帰ると、ヴェニエルはすぐに十人委員会を召集した。 「本日、十人委員会の開催を要請したのは、ヴェネツィア本国の対抗力強化を見据えたミッションを提案するためだ。」 ヴェニエルは切り出した。
「ヴェローナを攻略する。」 「ミラノと事を構える、ということですか。」 議場は騒然とした。
「諸君、我が国はオーストリア、アクイレイア及びミラノの三国に挟まれ、微妙なバランスのもとに成立している。 本国の領土を少しでも拡大することで、これら三国への対抗力を上げなくてはならない。」 「しかし海洋国家たる我が国が内陸のオーストリアの領土を狙っても利は少ない。 隣接するアクイレイア領フリウリは首都であり、領域とするにはアクイレイア全土を滅亡させねばならない。 ならば、我々が狙うべき土地は明らかではないか。」 「しかし、ドージェ、今の国力でミラノと事を構えれば我が国が劣勢なのは明らかです。」 「その通りだ。だから、ミッション実現に向けた布石が重要なのだ。私は次の政策を実行したい。」
<政策>
「私もオーストリアの後ろ盾が必須と考えます。」 「国力を高めることがヴェローナ攻略への第一歩というわけですね。」 委員は納得した。十人委員会は満場一致でヴェニエルの提案を了承した。
諸外国から見ると我が国の新たな政策は滑稽に映ったようだ。 特に嘲笑の的となったのが陸軍改革である。 「あの国の陸軍は烏合の衆に過ぎない」とあちこちで噂の種となり、国威は10も減少した。
【笑わせておけ。】
もっとも、ヴェネツィアの思慮遠謀にいち早く気付いた国もあった。ワラキアである。 「ドージェ、ワラキアより軍事同盟要請の使者が参っております。」
「小国が大国と対峙するには同盟と人的資源が重要、との貴国の方針に我が国王は感服しております。」 使者は述べた。 「いまや東の脅威となったオスマン帝国に対抗するには協力することが重要です。 我が国と貴国の同盟はお互いを利することになりましょう。」 十人委員会はワラキアとの同盟を直ちに了承した。
布石を打ち終わったヴェニエルは、パウロとともに第1軍を率いれアテネへ向け出航していった。
「No.2 アカイア防衛戦争(1399年12月-1401年1月)」につづく
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