1427年12月、東側のイスラム国家チャンダル及びエルテナに聖戦を開始する。
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チャンダル側には大国シリアとハフス朝が参戦。 エルテナ側にはティムール及びシビーリが参戦という数的にはかなり不利な状況である。 1428年5月、全兵力でチャンダル領を占領するも未発見地域に領土があるらしく併合は出来なった。 そのためシノーペを割譲させ講和。だがシリアがまだ残っている。
その後、領内に侵入してきたシリア軍を各個撃破していくも数的には敵国の圧倒的有利、
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1430年12月には領土の大半を占領される事態に陥ってしまう。 厭戦感情も限界の20を突破、 ここまでかと思っていた時シリア側から痛み分けで講和が来る。
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これにより危機を脱し、もう片方の敵エルテナを1431年9月に併合することに成功した。
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一方、停戦を申し込んで来たシリアは騎士団との戦いに全兵力を投入した隙をカスティーリャとイラクに突かれ、 マムルーク朝を継承したその巨大な国土を蹂躙されていたのであった。
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厭戦感情が20を越えてしまったので、暫くは厭戦感情下げと反乱軍狩りに勤しむ事に。 その間の1434年7月、属国アルメニアを併合。5回ぐらい併合提案を拒否されました。
1436年5月、ミッション「シリアを叩き潰す」を開始。アダナに中核州を得る。 シリアはイラクとカスティーリャに敗戦し国土を分断された上に軍の再建も進んでいなかった。
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翌年11月、アダナを割譲させ講和。
1437年3月、次のミッション「ブルガス征服」に従いブルガリアに宣戦。同年7月にブルガスを割譲させ講和。
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翌年7月には宣戦時に付いて来たビザンツをカソリックに改宗させ講和する。
1439年4月、ミッション「イラクを攻撃」を開始しアレッポに中核州を得、
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翌年7月にアレッポを割譲させ講和。一歩ずつ聖地に近づいて行きます。
1441年8月、アントニウス1世逝去。マーカス・アントニウス1世が総長となる。
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それにしてもアントニウス多いなあ。
1442年3月、教皇から戦争しろとお怒りの言葉が…(イラッ
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conquer ro…おっといけない、聖地を取り戻すという使命が騎士団にはあるのだ。
その後、周辺国にミッションCBで喧嘩を売りつつじわじわ拡大していく。
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騎士団はアナトリアをほぼ勢力下に治め、バルカン半島の正教国家への進出も順調である。
東欧ではポーランドがキプチャク・ハン国を破り東進を開始、アナトリアまで進出してきている。 さらにリトアニア及びノルウェーの同君連合上位構成国となっている。
フランスは一時期属国をほぼ併合していたが破門を連発されていた。 結果、イングランド及びブルゴーニュに国土を蹂躙されている。
ドイツ圏ではブランデンブルクが順調に拡大を続けている。 ドイツを見れる日は来るのだろうか。
今回はこの辺りで終了、次回Hospitaller(4)へ