1650年12月にオーストリアがブラウンシュバイクに宣戦を布告した。 それぞれ同盟国があり、オーストリア・バイエルン連合VSブラウンシュバイクオランダ連合であった。 しかも、カトリックと新教の連合軍が改革派の国家と対立しており、プロイセン民族を除くほとんどのドイツが戦争に参加したのである。 ドイツ内戦の始まりであった。
国名 | 収入 | 陸軍LV | 人的資源 | 総兵力 | 宗派 |
ブラウンシュバイク | 189.6 | 25 | 112K | 116K | 改革派 |
オランダ | 118.5 | 26 | 44K | 76K | 改革派 |
オーストリア | 154.1 | 27 | 116K | 139K | カトリック |
バイエルン | 75.8 | 30 | 35K | 45K | 新教 |
しかし、この戦争の大義名分が交易戦争であったと言うことは、あまり知られていない事実である。
この表は、開戦1月後の状態である。 すでに改革派連合軍に騎兵1万、歩兵1万の計2万人のリードをしているが、バイエルンの兵力は4万5千人である。 また、バイエルンとブラウンシュバイクの国境は長くかつ、地形はフラットである。 友軍のオーストリア軍は、ボヘミア地方から進軍することが予想されており、ブラウンシュバイクやオランダの大軍が、バイエルンの領土に進駐してくる可能性があった。 戦争の名目からして、敵国の領土を奪い取ることはできない。
これらの制約を考えた上で出した結論は、自国領の兵力をまとめることだった。 自国領の補給限界が30Kを少し越す程度だったので、第1軍は歩兵30,000、第2軍は歩兵砲兵混成の15,000であった。 第1軍は自国内で敵軍を壊滅した。 第1軍が十分活躍した後に、第2軍がブラウンシュバイク領で占領行為を開始した。第1軍は、ブラウンシュバイク領で敵兵を探すべく動き回った。
交易戦争と言う大義名分であったにもかかわらず、4カ国は総力戦を行った。 1年が経っても、ブラウンシュバイク領とバイエルン領で2桁を超える野戦が繰り広げられたが、ブラウンシュバイク領がいくつか攻略されただけで、戦局に大きな動きはなかった。 1年半経ち、バイエルンが脱落した。 交易戦争に、同盟国として参戦することに意義を見出せなくなったのである。 1652年7月にブラウンシュバイクと講和し、戦争から離脱した。
オーストリアとブラウンシュバイク・オランダ連合軍は、和平のタイミングを逃しそのまま、戦争を続けていた。