これまでの当主は、2世なのに1世となっていたりするにもかかわらず、ウィルヘルムだけが最初から4世・・・・ 能力は行政9、外交8、軍事3と、6か7が上限だったこの国にとっては、突出した能力になっており、能力にふさわしい働きをしてもらいたい。
ウィルヘルム4世は、即位時に大きなプランがあった。 1つは、隣の大国オーストリアを封じ込めること もう1つは、新教国家を増やすこと
異端根絶で強制改宗をさせれば簡単であるが、カトリック国家から危険視されるだろう。 ここは、帝国に襲撃をした国家を撃破し、この国家を新教に改宗する方法がスマートだろう。
1688年にスウェーデンがチュートン騎士団に宣戦を布告した。 スウェーデン、プロヴァンス、ナクソスVSチュートン騎士団、ポーランド、ブラウンシュバイク、バイエルンである。 第1軍がプロヴァンスに侵攻、第2軍がバルト海沿いのスウェーデン領フィンランドに侵攻、第3軍がユトレヒト半島のスウェーデン領に侵攻した
プロヴァンスは開戦3ヶ月で敗北し改宗に応じた。
しかし、スウェーデンは、国土が深遠であった。 神聖ローマ帝国領をプロイセンのあたりまで拡張したつけであるかもしれない。 翌年9月にストックホルムの近郊まで攻め込んだところで、ようやく改宗を受け入れた。
新教普及に向けて、大きな一歩となった。
1690年に、オランダとフランドルの地域抗争が行われた。 この戦争に、保護か同盟か不明だがオーストリアもついてきた。 オランダとオーストリアは、オランダの飛び地イストリアでは接しているが、それ以外に隣接地がないため、戦争がただ無駄に長引くことが予想された。
1696年にスウェーデンが再びポメラニアに侵攻した。 今回は、ユトレヒト半島からスウェーデンに渡河ならぬ渡海。 翌年に和平となる。
オーストリアが宣戦布告をしてきたのは、スウェーデンと和平して半月後だった。 友軍ハンガリーを含めても、8万5千弱であるのに対して、オーストリアは騎兵だけで9万人、総兵力は16万弱であった。 さらに、スウェーデンとの戦争でスウェーデン領内奥深くに進軍したため、主力歩兵部隊は、ストックホルム近郊とポーランド領内に各3万づつがバイエルンに向かって帰国している最中であった。 バイエルンの主力部隊が帰国する先には、オーストリア軍の主力が9万程度いた。 このまま帰国すれば、各個撃破されるし、どこかで合流したとしても、それでも、勝てる見込みはない。 この戦争は民族主義であり、領土を4つや6つほど要求される可能性もある。
万事窮したと思っていたが、ハンガリーが予想外の働きをした。オーストリアの領土をすべて力攻めしたのだ。 幸いウィーン近郊には、オーストリア軍が見当たらない。 オーストリア軍は、総兵力は多いが歩兵の割合は少ない。
乾坤一擲、ミュンヘンの残兵1万5千でウィーン周辺の領土をすべて力攻めし、早期講和を行うことにした。 ウィーンと隣接しているリンツの割譲とオーストリア南部のスティリアの独立で和平が成立した。 1697年10月13日に開戦をして翌1698年2月8日に和平を行った。 オーストリア軍は、バイエルン領で占領行為を開始していたが、1つとして陥落できなかったことが勝因だと思われる。
もし、ウィーン周辺にオーストリア軍が3万人以上いたら、どうなっていたのだろうか・・・・
前回のオーストリア戦から5年後の1703年。 オーストリアは、前回同様にベルリン方面に確認できるだけで6万程度の兵力がある。これ以外に、この方面に3万程度の兵力を確認している。 また、チュートン騎士団もオーストリア陣営で参加しているのでこの方面は、10万を超える兵力になりそうである。 そこで、この地域の3万の歩兵をフランス方面に転向させた。貴重な兵力であり、失うことが危険なのと、フランス方面の占領に活用するためである。 ウィーン方面の部隊と、イタリア方面の部隊は、即効占領を行うことにした。 バイエルンは、すべての都市の城壁を拡張しているが、オーストリアはLV1などがLVが低い箇所が多いので、このような作戦が行えるのである。
境界争いで揉めていた、ロートリンゲンと、ボヘミア以北を分断するためにオストマルクを取得した。 さらにフェラーラを独立させ、イタリア側にも、飛び地が発生させるようにした。 ロートリンゲンの独立で孤立したメッツは、その後の暴動で、オーストリアから独立した。
オーストリア弱体化政策が、徐々に効果を奏してきたのである
神聖ローマ帝国の周辺国は、度重なる防衛戦で改宗を和平条件としたため、ポーランド、ハンガリー、ヴェネツィア、グラナダ、ポルトガルとすべて新教の国家となっていた。 ところが、十年ほどすると、また、これらの国は、帝国領土に侵攻してくる。 帝国内の国は、改革派かカトリックで、これらの国を保護するために同門の新教と争うこととなる。 「何のための戦争なのか・・・・・」と言う声は、下は人民から上は皇帝まで、同じ思いだったようだ。
1720年にオランダとイギリスの間に植民地戦争が発生した。 普通であれば、なんてことはない海戦での戦いとなる。 海の向こうに出た強欲張りどもが死ぬのは何の問題もない。
ところが、イギリス陣営には、オーストリアとプロヴァンスが、オランダ側にはバイエルンが参戦したのである。 英蘭よりも、オーストリアプロヴァンス連合軍とバイエルンのがちんこの戦いのほうが影響度がでかいのである。 それも、お互いの間での単独和平は行えない状態である。