1600年代半ばまでプレイしてましたが、一部プレイログが消滅したため、1代ごとをひとつのテーマとしているので1503年レオポルド・フェルディナンド1世の最初からやり直し中。 ブルゴーニュが兵力17万資金200overと他を圧倒する世界。 宗教は、皇帝になったホラントを改革派にしたところ、一生懸命布教したのか、キリスト教はほぼ改革派に埋まった(笑)
レオポルド・フェルディナンド1世 フォン・ツヴァイブリュッケンが即位したのは、2歳である。 1500年前後に宗教改革の嵐が吹き始め、ドイツを含むヨーロッパ全体が大混乱の状態であったが、選定候は事故の利権を守るため、2歳なら何もできないと思い皇帝に選出した者と言われている。 バイエルン自体も、フランケンとアンスバッハは新教、残り8州は、改革派と真っ二つに分かれていた。 さらに、親族であるラファエル・モシャムが王位を僭称して反乱を起こした。 まさに、混乱期だったのである。
ところが、新帝は、ラファエルモシャムを破り、さらに、国教を新教に定め、翌1504年には、反対する修道院を解散するなど改革を矢継ぎ早に行ったのである。 それこそ、聖徳太子も真っ青な聖人君主と言うべきか・・・・
2歳の子供が、これだけの判断をするのは、無理である。 どこか北の国のように年齢を詐称しているか、誰か、別の権力者がいるのだろう。 この時代には、大元帥が常に2名以上いる時代であり、軍が先導する政治であったらしい。 ( 先 軍 って、やっぱりどこか北の国みたい)
神聖ローマは、本当に教皇から逃れることができないのである。 1507年に教皇がシエナに侵攻した。*1 いつもどおりに、2,3万の援軍を派遣するので、チョウザメ・ボルシチとか言う教皇軍を木っ端微塵に撃破する。 1510年には、ヴェネツィアがジェノバに侵攻したが、これも撃破する
1500年代の一番の問題はブルゴーニュであった。 カレーの土地をめぐり、1514年7月にブルゴーニュがイングランドに宣戦布告した。 イングランド側には、オーストリアが味方し、ブルゴーニュを挟み撃ちにする形になった。 陸上最強国家と言われるブルゴーニュも、挟み撃ちにあって1516年にオーストリアにロートリンゲン、メッツ、およびトリアーの4州を失った。 ところが、ここに、プロヴァンスがブラウンシュバイクを伴ってブルゴーニュに宣戦布告。1518年にメーヌ、イル・ド・フランス、オルレアネ、およびベリーの4州を失った。 この間に、クレーフェに3州も奪われており、イングランドの和平で3州失い、あわせて14州を失ったブルゴーニュは、一気に衰退した。
幻の世界では、俺が世界一なのに、と訴えてるが、聞こえないふり、まったく聞こえない
ブルゴーニュが大規模な戦争をしているときに、バイエルンは、何をしていたのか 神聖ローマ皇帝としてアルマニャックを保護するためにトゥールズに出兵したり、チュートン騎士団を保護するためにリトアニアに出兵したり、東奔西走していたのである。 おかげで、トゥールズとリトアニアに正しい教えが布教できたので、帝国内部での争いには目をつぶっておく
1519年にはジェノバ、1521年にはシエナに侵攻した。 侵攻回数が2桁に達した。
教皇のわがままな振る舞いは、ヨーロッパ中に響き渡っているのか、カトリックの教えから宗旨替えをする者が増えている。
度重なる敗戦や宗教対立から反乱の続いたブルゴーニュが1521年に崩壊した。 これを気に、ブルゴーニュの不法な支配から脱した国が多数あり、フランスは1400年頃の分裂状態に戻ったのである。 フランス、ブルゴーニュ以外の国がフランス全土を統一するのは、初めて見る気がするので、期待大。
1530年にドイツどころか、ヨーロッパ全土を揺るがす大事件が起きた。 ブラウンシュバイクが、ボヘミア王位を承継したのである。
ブラウンシュバイクとボヘミアは、ドイツの中堅規模の国家であり、オーストリアやスウェーデン、イギリスのような大国に対抗するためには、どちらかを食う必要があったのである。逆に言えば、ブラウンシュバイクとボヘミアも同様のことを考えており、両者の思惑が一致したのだろう。 これで、オーストリアとブラウンシュバイクにサンドイッチのように挟まれたのである。
イベリア半島ではグラナダが、東では、トヴェリが勢力を伸ばしており、フランスのプロヴァンスと並んで、イレギュラートリオとなりそう。
1538年に突如、ブラウンシュバイクから宣戦布告をされた。 しかも、奇襲で、1万の部隊が2つ消滅したのである。 このときは、同盟国のホラント、プロヴァンス、グラナダが防衛に参加していただいたおかげで残存兵力3万を展開して無事にやり過ごすことができた。 このあと、安心したのか、レオポルド・フェルディナンド1世は亡くなった。