王道の道 王道の道/神の敵

レオポルド・フェルディナンド2世・フォン・ツヴァイブリュッケン

何ができるのか

 アドルフ1世のあとを継いだのは、レオポルド・フェルディナンド1世・フォン・ツヴァイブリュッケンと言うが、先々代

と同じ名称である。レオポルド・フェルディナンド2世の誤りではないかと思う。  さて、即位時の年齢は1歳!?  当然何もできない・・・・・

 神聖ローマの帝位はチュートン騎士団に・・・・騎士団長が皇帝??  宗派が違えば友好度200でも支持しないのが理由である。

 ヨーロッパにプロテスタントは、我が国しかないから、もう皇帝位が回ってくることはないだろう

ホラントの海外進出

どこにあるの?

 1590年にホラントがマヤという国に侵攻したようである。

 我が国の地図には乗っていない海の向こうの国である。  船どころか、港すらない我が国には関係がない。

即位しても、凡庸は凡庸

うわー

 1594年に成人し、親政を始めることになった。  1歳で即位していたが、この能力は・・・・・・

 タブン、成人しても何も権力は持っていなかったのだろう  10年後の1603年に死亡した。  即位も若かったが、逝去したのも早かった。

 何もすることがなかったのは、今回初めてである。

1603年

世界地図

 前回から20年しか経っていないのでホラントが、マヤを食って成長した以外に、大差はない  アルマニャックが徐々に力を蓄えて来ており、プロヴァンスとのフランス争いでは、一歩リードできたのではないか?

国名収入陸軍海軍交易生産統治人的資源兵力1580年収入陸軍海軍交易生産統治人的資源兵力
ポルトガル157.9212119232194K89K 127.3212018221826K89K
オーストリア138.52222222425108K136K 122.12221212223101K136K
イギリス113.9222120222166K134K 105.4212018211969K121K
ブラウンシュバイク112.22221212322103K98K 81.1212018222086K76K
ホラント106.3222222252326K41K 51.8212122242219K27K
グラナダ86.1222221242264K52K 62.4212118222156K56K
メクレンブルク83.12324232525   50.52121222423  
スウェーデン65.6212119232044K55K 63.0212017221745K89K
ペルシア57.9171512191144K55K 40.6151111181068K65K
バイエルン55.2252021222120K35K 49.7221819212019K50K
アルマニャック55.0222223242250K37K 41.6212122222243K20K
ビザンティン50.6171617191662K54K 37.5161516171446K45K
教皇領50.4212121222246K36K 37.0212020211941K36K

マクシミリアン2世・エマニュエル・フォン・ツヴァイブリュッケン

なぜ、こちらも1世??

 レオポルド・フェルディナンド2世の後を継いだのは、マクシミリアン1世・エマニュエル・フォン・ツヴァイブリュッケンと言うが、ご先祖にマクシミリアン1世は存在している。マクシミリアン2世の誤りではないかと思う。  さて、即位時の年齢は13歳!?  先代の1歳よりは、ましだが、摂政評議会が政権を運営する

 先代から含めて、この期間は、君主に政治権力はなかったのではないかと推察される。

恐るべき同君連合

これで終わったか・・・・

 1603年はマクシミリアン2世が継いだ年だが、隣国でも動きがあった。  ホラントがブラウンシュバイクと同君連合を組んだのだ。  双方とも、70,000近くの兵力を有しており、敵に回したら、バイエルンは、簡単に蹂躙されてしまうだろう。  オーストリアとブラウンシュバイクに完全に包囲されており、もはや行き詰まりといっても良い

前途は暗い

あーあ

 1608年。即位5年目。  ようやく親政を開始したマクシミリアン2世だが、早速大失態をしでかしてしまった。  同盟国のオーストリアが始めた戦争(対イギリス・アルマニャック)に参戦していたにもかかわらず、イギリス文学にあこがれていたことがばれてしまったのだ。  当然、同盟国から顰蹙を買い、国内でも人気を失った

あーあ

 失意で、とうとう病気になってしまった。  病気中に、貴族が権力を握り、バイエルンの政情はさらに漂流をする。

 プロテスタントの同士は、アルザス、メクレンブルク、オルデンブルクだけとなり、改革派の国も、神聖ローマ皇帝の説得で次々にカトリックに戻っていった。

教皇

 教皇自ら出陣し、ビザンティンを占領した。  その上で、ビザンティンをカトリックに改宗させ、東西協会の統一を果たした。

 1054年の東西分裂から、約600年をかけたが、1611年に統一を果たした。  ローマ教皇の武力解決主義に、反発する見方も多々あったが、東西統一については評価する意見が多い。

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