モンゴル再興 ~DWモンゴル汗国で世界帝国~

治世の時 1560年

あれから数年、ようやく安定度が-1まで回復したがいまだ帝国は熱い反乱のさなかにあった。 国家の方針でのペナルティと遊牧民固有のペナルティ、マイナスの安定度、厭戦感情とあい重なってモンゴル帝国中で反乱が勃発、本土ともいえるモンゴル本国や華北地域でも反乱確率は10%を超え、占領して間もないロシアの諸地域や華南に至っては22%超もの状態になっている。 周辺諸国とも定期的かつ自動的に宣戦を行い高まる厭戦感情と相まって焼け石のごとき状態だ。

モンゴル帝国が誇る8万のマングダイ(蒙古弓騎兵)と10万の歩兵を擁する今でもなお将兵は国内を奔走し反乱軍を鎮圧する日々に追われていた。

だがここは耐え時だ。 国内情勢が安定しさらに技術の西欧化が達成できれば日の目が出てくる。 ここは我慢の一手で戦い続ける。

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1560年におけるモンゴル帝国の反乱発生確率。まるで真っ赤焼けた石の如き。

日本発見 1561年

そんな国内情勢不安定なさなか、ヨーロッパから帰ってきた交易商人からカステリーニャが日本を発見したらしいとの情報がもたらされた。 もちろん東アジアの国である我らがモンゴルは朝鮮経由で日本の存在自体は知っていたのだが、日本という国は源氏や平家といった諸大名の争いが激しく、島の外から出てくることはないだろうとの見立てていた。 そうでなくとも海戦などした事のない蒙古軍だ、近い国ではあるが興味の対象外の島といえる。 問題なのは、ついに西欧諸国がこの東南アジアに到達したという事実。 これはますますもって急がなければならない。

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島国には興味はないが欧州の軍がアジアを踏み荒らすのは気に食わない

クメール朝征伐 1563年

モンゴル帝国の内情を見てか、しばらく大人しくしていた東南アジアの覇者クメール朝が再び帝国に反旗を翻す。 華南鎮軍として駐在していた5万の蒙古兵で再びジャングルに分け入り南征を開始する。 歴代の中華の皇帝は、中原から見れば辺境四方、東の東夷(とうい)、西の西戎(せいじゅう)、北の北狄(ほくてき)、南の南蛮(なんばん)という蛮族を鎮めることに腐心してきた。

しかし今や、かつて北狄と蔑まれてきた我らモンゴル族が中華を併呑し、逆に漢族の皇帝は雲南の小国で糊口をしのいでいる。 そして今南蛮と蔑んできた東南アジア諸王朝に庇護してもらっている様は、まさに諸行無常の響きというものだろう。 その筆頭こそがクメール王朝なのだ。 中華を治める王、すなわち皇帝として「南蛮」を征伐しなければならない。

クメール軍自体は相変わらず容易に撃破できるものの、険阻な山脈やジャングルがモンゴルの侵入を阻む。 それでも南進を続けクメールの王都プノンペンに入城、国王チェッタ1世に賠償の調印を強要する。 このような苦難の地はこちらも支配したくないので本来ならば属国化したいところだが、クメール朝は国土が広すぎ属国化は難しい。 痛し痒しといったところだ。 これでまた今しばらくはおとなしくしているだろう。

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熱帯ペナルティのある東南アジアはできれば制圧したくない地域の一つだ

西欧技術への渇望 1568年

途中で顧問の活躍もあり想定よりは早く安定度が回復しつつあるなか、ついにリグダン・カーンは、西欧技術国と国境を接する決意を固める。 その際に、どの国と接するべきかの検討に入った。

候補は南方からロシアへ侵食しつつあるドイツの大国ボヘミアか、北欧のスウェーデンだ。

ボヘミア王国は神聖ローマ帝国の構成国であり、大陸軍を擁している。 その上連鎖的にドイツ諸連邦と戦争に突入する危険性は大いにある。

一方スウェーデン王国は最も我がモンゴル帝国に近い位置にある上に、 他の西欧諸国との関わりが薄い国だ。 国境を接する=即戦争である遊牧民族にとっては都合が良い。

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ヨーロッパの現状。ボヘミア王国の伸長がすさまじい

北海の戦士、極東の戦士 1571年

スウェーデン王国に向けて征西を開始せよとの命を各戸長に飛ばすリグダン・カーン。

スウェーデンとモンゴルの支配地域との間にあるスモレンスク王国に対し、蒙古軍2万5千が進撃を開始する。 スモレンスクはモスクワの北東にあるわずか1州の小国で、最初から勝負にならない。 国王ロスティスラフ3世はモンゴル軍来たるとの報を受けるや否やヴェルトガの州都にして首府ウレニの街を放棄、モスクワ大公を頼り落ち延びて行った。 もちろんこんな小国が欲しいわけではない。 本命は北欧の大国であり西欧技術国であるスウェーデンとの接触だ。

ほどなくしてスモレンスクを吸収、すなわちスウェーデンとの国境を接することになるので、即時にかの国との戦端が開かれる。 しかし今回は戦争をしたいわけではない。 ひと当たりしたのちに講和を打診、モンゴルからの賠償金で手が打たれた。 いよいよ西欧化への扉が開かれつつあった。

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バイキング対モンゴル軍団の本当の戦いは今しばらく先になりそうだ

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