<先代アレクサンダー1世><プレイレポ /A・E・I・O・U><次代>
即位時にこっそり同君連合先のバイエルンを併合してます |
フランツ1世は即位するや否や、父が準備の途上であった北伐に取り掛からねばならなかった。北伐を前にフランツは「北部諸侯がカトリックに再改宗すれば寛大な処置をとる」と和平案を提示したが、これは北部諸侯には弱腰にしか写らなかった。
HttTでは皇帝はプロテスタントや改革派の諸侯に外交で改宗を迫ることができる。断られると専用のCBを得る |
ここで戦争の不可避を悟ったフランツは6万の兵を率い北伐を開始した。(北部ドイツ同盟戦争)北部諸侯の連携は強く、フランツはその粘り強さに辟易しながらも、着実に戦果を重ね、ホラントを追い詰めていき、ホラント伯ヤコブの自害で一旦、終結したかに思えた。 しかしプロテスタント諸侯の一人であったブランデンブルグ選帝侯が参戦を決めたことや、カトリック諸侯までもが北部ドイツ同盟に参加するなどし、戦争は混迷を極め、その終結には十年の時を要した。(ドイツ十年戦争)
北部ドイツ同盟戦争とそれに続く十年戦争は、一般的には宗教戦争であったと理解されているが、実際には皇帝対反皇帝の戦争であったという学者や、北部と南部の経済格差をめぐる戦争であったと指摘する者もいる。どこまでが北部ドイツ同盟戦争で、どこからがドイツ十年戦争であったかは、歴史資料が乏しく、今のところ定説が存在しない。
戦後の北ドイツ。皇帝権威値欲しさに北部の異端諸侯を改宗したり、国を独立させてまわったわけです。 |
十年戦争の影響で帝国の北部は疲弊したが、これによって諸侯の力は弱体化し、勝利した皇帝の権力は大きく拡大した。皇帝はエアフルトで帝国議会を開き(諸侯の数も激減しており名目的なものに過ぎなかったという)、永久ラント平和令の布告*1及び帝位の世襲*2を宣言し、父アレクサンダーが断念した帝国の改造を強力に推し進めていった。
永久ラント平和令。 |
帝位の世襲。 |
皇帝補正ボーナスありでこの兵力なのに、何だこのフランス軍の多さは?!! |
帝位世襲に脅威を覚えたのがフランス王であった。帝国の拡大化はすなわちフランスの相対的な弱体化を意味したからである。またフランス王は代々神聖ローマ皇帝位も狙い、ハプスブルグ家と選帝侯の買収合戦を繰り広げていた。 フランツが帝位世襲を表明した後の1515年、フランス王は実効支配していたロートリンゲンから兵をルクセンブルク公国へと進め、リエージュ司教領にまで戦果は及び始めていた。また、この戦争に先立ち、フランス王はポーランド王とも盟約を結んでいたため、フランツは東西から挟まれる形となった。 外交戦では敵に劣ったものの軍事面ではフランツは優秀であった。まず兵力をポーランド王国へと向け、早々とポーランド王と和を結ぶと、兵を反転させフランス王軍と対峙したのである。 しかし、フランス王軍は物量において皇帝軍を凌駕しており(これは皇帝がオスマン家への牽制のため兵力の一部しかフランス戦に振り向けられなかったからである)、皇帝軍は一進一退の戦いで、損耗する一方であった。一時はルクセンブルク公国がフランス王国に併合される事態となるが、皇帝軍がなりふり構わず、焦土作戦をとったため、フランス王軍も徐々に疲弊し、両軍の疲弊が頂点に達したため*3、ルクセンブルグ公国の再独立及び、バー伯の帝国復帰を条件に和約を結んだ。皇帝はロートリンゲン地方の回復も希望したが、これは叶わなかった。 この戦争は3年間という短期間ではあったが、帝国とフランス軍の総力戦の様相を見せ、先の十年戦争以上の被害をもたらし、成年男子の数は両国とも激減したという*4。 度重なる戦争の心労からか、フランツは40代という若さで息を引き取ったという。1518年のことである。 <先代アレクサンダー1世><プレイレポ /A・E・I・O・U><次代レオポルド1世>