プレイレポ/応仁の乱

細川勝元の死

しかし1474年、管領細川勝元が病死すると、この婚姻外交をつうじた体制に綻びが生じる。 いくつかの勢力との婚姻関係が解消され、足利家・畠山家・上杉家といったライバルを軸にして反細川陣営が形成される。 細川家はそれならもういっそ近江の将軍足利家を滅ぼし、自分が将軍になってしまおうと軍事行動をおこす。 だが、この細川家の冒険は守護大名たちを震え上がらせ、彼らを反細川陣営においやることになってしまった。

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緑色のプロビが細川家とその同盟者たち。 赤色のプロビが反細川陣営。関東管領の上杉家を中心に、畠山家、斯波家、そして応仁の乱では細川側だった大内家や島津家がこちら側にまわった。

九州勢が敵にまわったのは誤算だったが、海軍力で優越しているかぎり、彼らは本州に渡ってこれない。 細川は軍を東国に集中し、斯波家、畠山家、ついで足利家を破った。 だが諸侯の抵抗ははげしく、上杉家の反撃の前に細川勢は後退。また越前で戦国大名の反乱*1が起こり、朝倉義景率いる朝倉家が成立した。

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朝倉義景は反細川陣営にまわった。 彼らは反乱軍として、1プロビ国家の陸軍徴兵限界をはるかに超える24000の大軍を擁していた*2。 このため彼らをとめる術はなく、細川家は朝倉家による軍事上洛を許してしまう。朝倉義景は越前から丹波をとおって細川の首都摂津を攻略。凱歌をあげた。

だが朝倉家と彼の擁立した将軍足利義昭が復興した幕府は、細川家への対抗軍事行動のため町人衆や寺院に重税をかけ、民心を失った(このへん妄想)。 朝倉の軍勢は消耗のため10000ほどに減少し、細川家の反撃にあって壊滅した。朝倉の反乱は鎮圧されたのである。

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こののち、細川家は東国遠征を繰り返し、武田氏の金山を併合し、管領上杉家を滅ぼした。 またその後、不服従の姿勢を示した九州勢に対しても遠征を繰り返し、ついに1567年、細川家は征夷大将軍となったのである。

上記のスクリーンショットはそのときのもの。 細川氏は日本をほぼ統一し、奥州伊達家、山陰尼子家と大内家、そして九州の阿蘇、島津といった外様大名とともに、大坂幕府を開いた。

エピローグ

そのあとは普通に日韓併合と台湾出兵して中国に征服王朝をつくりました。

おわり


*1 revolutionaryによる反乱
*2 陸軍徴兵限界は1プロビあたり2000弱。細川家ですら、このときは20000弱の兵力しかもっていなかった。

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