ジェノバの商人

ヨーロッパの流れ

1500年まで

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 1453年のコンスタンチノープル陥落はヨーロッパに大震撼を与えた。  さらに、オスマントルコは、東ヨーロッパに勢力を広げハンガリーを駆逐し、急激な勢力拡大は、周辺国の警戒を招き、周辺国からの干渉を招くことになる。  フランスは、周辺諸国を併合し、カトリックの領袖として世界に覇を唱えていく準備が整った。  オーストリアは、ヴェネチアを撃破し、イタリアへの浸透を図っていく。  ブルゴーニュは、ブルターニュ、低地諸国、さらにはイベリア半島への進出を図り、フランスの一地方国家からの脱却を目指し、一大勢力を築くことに成功した。  ドイツ、イタリア地方は、小国が淘汰され、周辺大国の草刈り場になっている。

1500年から1550年まで

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 1500年初頭より広がっていった新教は、イベリア半島や北イタリア、ドイツ方面に広がった。  これら新教に対し、旧教国家では、イギリスがメクレンブルグを滅亡に、ブルゴーニュがイベリア半島に干渉を行い北イベリアの平定をした。  しかし、旧教の盟主であるフランスは、オスマントルコとの戦争に精力を傾け、新教国家は命脈を保つことができた。  オスマントルコに対する各国の干渉は、旧教と新教の対立など、干渉国のそれぞれの思惑により、協調がとれないため、失敗に終わった。  その結果、ポーランド南部までオスマントルコの勢力が拡大した。  特に、カトリックの盟主であるフランスがアルバニアを足がかりに行った大遠征が失敗に終わったことは東欧諸国を大きく落胆させた。

1550年から1600年

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 オスマントルコへの干渉は、ブルゴーニュとオーストリアの対立により無くなり、オスマントルコのボヘミア、ポーランド、ウクライナなどの地域への進出が容易になった。  イタリア半島は、長く大国の草刈り場となっていたが、アラゴン、オーストリア、ジェノバの3カ国に集約されることになった。  ジェノバとアラゴンのイタリア統一を巡る主導権争いはジェノバの勝利におわり、イタリア半島の南北の分離が確定した。  今後は、オーストリアとの北イタリアを巡る覇権争いが予想される。  ブルゴーニュは、本国と低地諸国との連結が、オーストリアによって阻まれ、低地諸国の新教の普及により、飛び地である低地諸国、イベリア半島の新教徒の反乱に対応できず、国家分裂の可能性が出てきた。

1600年から1650年

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 オーストリアとジェノバの対立が決定的になった1600年代前半は、オーストリアと国境を接するオスマントルコにとって、チャンスであった。  さらに、カトリックの盟主フランスとリトアニアによる、ポーランド王位を巡る継承戦争により、リトアニアの国力が低下し、オスマントルコは、やすやすと北上し、バルト海に進出した。  後世の政治家チャーチルは、共産圏の中央進出に対して、「東西の鉄の壁は、300年前から存在する悪夢である」と述べている。  また、オーストリアとの間で4年にわたる大戦争を勝利したジェノバがロンバルディアの統一を果たした。  1500年の宗教改革以降、宗派対立で揺れていたブルゴーニュは、宗派対立の解消をねらい、1647年にカトリックから改革派に国教を変更し、オスマントルコに対する十字軍を実施した。  しかし、、オスマントルコの抵抗は激しく、2,3年ほど、ドイツで戦争しただけで終結してしまった。  宗派対立と、十字軍での消耗が、この後のブルゴーニュ衰退の直接的な原因になっていく。


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