1417年に、マキシミリアン1世が即位したのは13歳である。 亡きアルブレヒト4世の側近ヨハンが摂政として統治した。
1419年2月にボヘミアが破門となった。 ボヘミアは、代々神聖ローマ帝国皇帝を務めているが、そのためイタリア政策で教皇と対立していた。そこで、ポーランドは複数の枢機卿を通じボヘミアを破門するための工作を行っており見事に成功した。 政治とは、表に出ない裏の部分で動くことの方が多いようである。
1419年9月にポーランドがボヘミアに侵攻した。 すでにボヘミアの隣国であるチューリンゲンとオーストリア両国と同盟を結んでおり、ボヘミア包囲網は完成していた。 そこに、破門と言う錦の御旗を掲げたのである。 オーストリアとしては、先手を取られたというところであろうか。
ポーランドとボヘミアの戦争に同盟軍として参加したオーストリアは各地で活躍した。しかし、和平では、オーストリアは一握りの土地すら手にすることができなかったのである。 ヨハンは、若い君主に対し、次の様に諭したと言う。 「戦争とは、戦いを始める前に勝負がついているものです。戦争開始前も、開戦中も、常に外交を続ける必要があります。外交は継続であり、一瞬と言えども手を抜くことはできません。」
ボヘミアを下したポーランドは、そのままマイセンに侵攻した。 先ほど和平をしたばかりのボヘミアがマイセンの側につき、再び戦争となった。 ヨハンはマキシミリアン1世に次の様な提案をした。 「教皇はイタリアで戦争中、皇帝もポーランドと戦争を行っております。この際、オーストリア内にある司教領*1を接収してはいかがでしょうか。」 「問題はないのか?」 「司教領とは、各地で境界争いがあります。それに、寄進の経緯が不明確な物もあり、訴訟が絶えません。それに、我が国には、ローマ教皇、アヴィニヨン教皇*2、皇帝がそれぞれ勝手に指名した3名の大司教がおります。誰が、本物かわかりません。」 「つまり、正式な大司教がいないから、大司教領を一時預かると言うことか。」 「対外向けには、そのとおりでございます。国内向けには、あくまでも、境界争いや所有権の問題と言うことであります。」 「言いたいことはわかった。ところで、教皇が統一され、皇帝と和解した場合はどうなるのだ?」 「東方教会と話をつけています。かの国*3は、オスマントルコの脅威におびえておりますので、トルコの侵略に対する防衛同盟、いわゆる十字軍の約束を行ったところ、快諾しております。」 「我が国の宗派を東方教会に変えるのか?」 「いえ、あくまでも、対外的なスタンスであり、司教領問題を十字軍の言葉で覆い隠すだめです。」 「ところで、トルコが侵攻したら、本当に十字軍を行うのか?」 「トルコが勝てば、どちらにしても、戦わなければならないでしょう。」 「なるほど。」
1420年8月16日 イベント:オーストリアが「境界線をめぐる争い」において「あくまでも領有権を主張しよう」を選択。 1420年10月15日 我が国がザルツブルクに対してオーストリアによるザルツブルク再征服を開始。 1421年6月16日 ザルツブルクが我が国の寛大な和平提案を受諾。
1431年12月に、オスマン帝国がビザンティン帝国に戦線を布告した。 ビザンティン帝国は防衛同盟*4を結んでいるオーストリアに救援を求めた。 マキシミリアン1世はヨハンと対応について協議した。 「閣下。司教領*5強奪の際の方便に過ぎません。皇帝は破門を解かれたものの教皇と対立しています。教皇も両立のままで統一の兆しはありません。捨て置いても問題はないと思います。」 「ヨハン。東方教会の保護は、私が宣言したことである。君主の代替わりもしていない以上、知らぬ存ぜぬでは、今後、誰も信用しなくなる。」 「閣下。ビザンティンに行くには、ハンガリーを通過する必要があります。ハンガリーは、トランシルバニアの独立勢力と内戦の最中です。軍隊の通過は可能でも、物資などの輸送が困難です。」 「ハンガリーだけでなく、トランシルヴァニアとも話はついている。それに、物資の件は、ヴェネツィアと話をつけている。」 「トランシルヴァニアだけでなく、ヴェネツィアとも話をつけていたのですか。」 「ビザンティン救援のことについては、事前に検討しておいたのだ。外交は継続であろう。ビザンティンに救援の兵を出す。」 「御意。」 ヨハンにとって、ビザンティン救援は本位ではなかったが、マキシミリアンの成長はうれしかった。夜のミサで、亡き友アルブレヒト4世にマキシミリアン1世の成長を報告した。
1396年にハンガリー王ジキスムントは対オスマン十字軍*6を提唱したが、ニコポリスで大敗し、ヨーロッパ諸侯の失望を買った。 さらに、神聖ローマ皇帝位を異母兄でボヘミア王ヴェンツェルと争ったが、ヴェンツェルが領内で異端のフス派を容認し、1421年に破門されても皇帝位を奪えなかった。 そのため、オスマン帝国に怯えるハンガリーの貴族はより強い王を欲していた。 トランシルヴァニアの有力貴族であったラーコーツィ・ミハリィ1世*7は、ポーランドとオーストリアの後援を受けて反乱を起こした。 1430年にハンガリーの一部を領有し独立し、1432年にハンガリー王ジキスムントを捕らえた。 捕らえられた時、ジキスムントは「内乱はオスマン帝国を利するだけだ」と言ったが、ミハリィ1世に「オスマン帝国はオーストリアによって撃退された」と論破されたと言われている。
世の中に出生不明と言われる者はいるが、これほど出生や経歴が不明な者もいない。 エジプト出身と自称しているが、アラブ人のようには見えず、むしろ、モンゴル人とヨーロッパ人を掛け合わせたような美形である。これだけ目立つ外見でありながら、ウィーンのヨハン宅につく前は、ヴェネツィアの港で見かけたと言う証言だけである。アラブから密航でもしたのだろうか?ラテン語やアラビア語に堪能であり、学問も収めているが、ヨーロッパのどの大学にも在学した記録も記憶も無い。 当主マキシミリアン公の信任を得ているヨハンの推薦だけで登用され、先代の名顧問の名と、自らと同じ姓を与えたことについては、当時から疑問があった。 1439年に政治顧問となったとき、無名で実績の無い彼は、容姿から男妾と揶揄されていた。
この出自不明の男が最初にやった大仕事は、ボヘミア、ブレシア、スラブォニアを中核州として主張したことである。1442年に当事国だけでなく、ヨーロッパ中から無視されたのは、内容があまりにも荒唐無稽だったからである。 ボヘミア州の領有権の主張は、プラハ大学からドイツ人教授が追い出された事*8に対し、ドイツ人の学問の場の確保することが理由である。 プラハ大学でヨハンの学友だったある教授は「ヨハンはぼけたのか?」と学生に問いかけたところ、学生から「ウィーンに大学が無いからでしょう」と答えられたそうである 。
1445年に、3年前に主張した荒唐無稽な中核州の主張をもとにミラノに侵攻した。 この戦争では、国力差もあり、戦争よりも、戦争後にブレシアの聖ナザレ教会で行われたマキシミリアン1世の演説のほうが有名である 「なぜ、エルサレムをイスラムに預けているのか。教皇も皇帝も言うことと行動が一致していない」 海軍はおろか、船1隻持っていない国である。