ヴェネツィア共和国第64代ドージェ(元首)ルドヴィコ・グリマーニ・パトリツィは、 ヴェネツィア史よりもポーランド史において有名な人物である。 1422年4月、パトリツィは、63代ドージェ ジローラモ・コルナロ・カエターニが戦死した後、 ポーランド戦の指揮を期待されドージェに就任した。
ボヘミア軍と協力し各個撃破戦法に徹した結果、 歴史上有名な「ラチブシュの戦い」でついにポーランド軍を全滅させた。 軍隊のいなくなった国を占領するのはたやすく、 1424年7月、ボヘミアはポーランド北部のポズナン、カリシュ、ウーチを割譲させ、 国土を大きく広げた。
しかし、ヴェネツィアは同じく3州占領したにも関わらず、 領土の割譲はおろか通商同盟へ加盟させることすらできなかった。 だから、パトリツィのヴェネツィア史における評価は芳しくない。
ボヘミア-ヴェネツィア占領軍が引き上げた後、 長引く戦争に不満が爆発したポーランド国民はついに立ち上がった。 軍が全滅した国王側が反乱軍に立ち向かうことはできず、 1425年2月、南部地方は独立しモルタヴィアとなった。 もちろんポーランド国王がこれを認めるはずもなく、 モルタヴィア独立は、ポーランドにとっては長い革命戦争のはじまりであった。
国が崩壊していく中で心労がたたったのか、ポーランド国王は早世した。 世継ぎも生まれていなかったため、 1436年4月、王妃の出身国である隣国リトアニアが併合を宣言し、ポーランドは消滅した。 だが、これはまた別の物語である。
東の脅威が消えて喜んだのはボヘミアである。 1425年7月、神聖ローマ帝国皇帝でもあったボヘミア王ヴァーツラフ4世フォン・ルクセンブルグは ボヘミア国土防衛協力の見返りとして、ヴェネツィアの帝国加盟を認めた。
「ボヘミアの国力は我が国の防衛力に直結する。」 とのジローラモ・コルナロ・カエターニの遺志はここに結実し、 ヴェネツィアは神聖ローマ帝国の後ろ盾を得ることに成功したのであった。
【帝国加盟】
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