1530年、ヴェネツィア市民には閉塞感が漂っていた。
先年の「オスマン帝国vs.オーストリア・ポルトガル連合」戦争でのオーストリア大敗で、 オスマン帝国はヴェネツィア本領に近接した国となり脅威が増した。 (「No.22 オスマン侵攻と第2次ハンガリー侵略戦争(1521-25年)」参照) いざという時のことを考え海外への移住を希望する者も増えたが、 リオデオロ、アルガン、シエラレオネへの入植はようやく軌道に乗り始めたばかりであり、 これ以上の植民地拡大は当面困難であった。
そして、肝心の交易面でも、他国が競争力や交易技術を向上(≒「独占」可能)させてきたため、 各地でヴェネツィア商人が交易競争に負ける事態が発生していた。 特に、インド・新世界からの商品は入植が先行しているカスティーリャ、ポルトガルの独壇場であり、 これらの商品を取扱うアンダルシア、リスボンでのヴェネツィア商人のシェアが、年々低下してきているのは痛かった。
国力の低下を誰もが感じる中、ブラツィオ艦隊がザンジバルに到着し、中東・インド・東南アジアからの 情報が入ってくるようになったことだけが、明るい話題であった。 (「No.21 大航海時代(後編)(1515-34年)」参照)
そして年の瀬も迫る12月、第74代ドージェ(元首)アンセルモ・ヴィットーリオが在任期間2年10ヶ月に して急死した。 オスマン帝国からの暗殺説も流れる中、ドージェに立候補したのはレオナルド・バリラ・ロッキである。 ロッキは改革の急進派として若い頃から知られ、その過激さゆえに「変人」との異名をとっていた。 選挙演説での「ヴェネツィアをぶっ壊せ!」のキャッチフレーズが、現状の打開を期待する市民に受け、 第75代ドージェに当選した。
しかし、ドージェ就任後の10ヶ月間、ロッキは何の政策も行わずコメントも発表しなかった。 そのため、ヴェネツィア市民からは、
「批判だけは上手いが政治能力はゼロ」 「ヴェネツィア史上始まって以来の無能なドージェ」
と失望する声が日に日に高まっていたのだが・・・。
1531年10月20日、ロッキは突如声明文を発表し、ヴェネツィア市民はその内容に驚愕した。
「ドージェ就任以来10ヶ月、私は実効性ある改革を行うために水面下で準備をしてきた。 本日、選挙公約に基づきヴェネツィアを強い国に変えるため、十人委員会は大改革を発表する。
<改革要綱>
(1)我が国の主産業である胡椒の中継貿易、織物・ガラス製品・印刷物の輸出において 他国との価格交渉力を高めるため、各ギルドに専売権を与える『専売条例の布告』*1を行う。 この政策により、海外での自由貿易政策を一層推進する。
(2)自由貿易政策に対する国内政策として、首都ヴェネツィアで輸入、販売できる品物と種類と 量を制限する『輸入法』*2の可決を議会に求める。
(3)『上告禁止法の布告』*3を実施する。 イタリア半島から教皇領が消えた今、宗教問題を教皇睨下に嘆願しても解決されない状況となっている。 今後、国家が睨下に変わり宗教問題を解決することとする。
(4)今後、『上告禁止法の布告』に伴い、宗教問題の解決費用の増加が見込まれることから 『教会税の導入』*4を導入する。 また、『教会税の導入』の実施のために智謀家であり宗教家でもあるヴィットーレ・ロヴィーゴに、 臨時宗教顧問としての重責を担わせる。
(5)交易効率を高め各地での貿易競争に勝つために、 政治体制を『重商共和制』*5から『管理共和制』*6へと移行する。」
たちまちヴェネツィア中が蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。 特に、管理共和制への移行はこれまでの国家体制を否定するものであったから、 元首公邸には連日のように陳情団が押しかけた。
しかしロッキに、 「わが通商同盟に新規加盟を希望する国がいなくなって60年*7、 重商共和制に固執する理由はどこにあるのかね。」 と言われては言い返す言葉もなく、陳情団はすごすごと帰るしかなかった。
重商共和制を採用しないということは、通商同盟の解消を意味する。 大改革発表から30日後、各地の交易拠点は全て閉鎖された*8。
【交易拠点閉鎖】
【臨時宗教顧問】
「ドージェ、ジャンピエロ・デ・ブラツィオがザンジバルで死亡したとの連絡が入りました。」 「・・・病死か。」 「いえ、海賊の急襲を受け戦死とのことです。」 「そうか。帰国を決めた矢先だったのに彼も不運だったな。」
「偉大な航海者」ブラツィオ死亡の訃報が首都ヴェネツィアまで届いたのは、1533年の夏の終わりであった。 報告を受けた日、ロッキは全ての予定をキャンセルしてサンマルコ寺院に篭ったという。 感傷めいたことから全くかけ離れているこの男にしては、珍しいことであった。
次の日、ロッキは豪商のカルロ・エリッツォを元首公邸に招いた。
「カルロ、来年1月から、国策『新世界の探索』を『統一的交易方針』*9に変更する。 十人委員会への根回しを始めてくれ。」 「国策変更は民意を得られず国が荒れるもと*10です。ましてや「偉大な航海者」ブラツィオの訃報に国中が 悲しんでいる中、民衆の支持は得られますまい。」
(「冷徹な改革者」というのは的を射ている。) カルロ・エリッツォは、誰が言い出したでもないロッキの渾名を思い浮かべながら答えた。
「カルロ、ジャンピエロ・デ・ブラツィオ氏がなぜインドへ行こうとしたのか、知っているか。」 「え、ブラツィオは単なる調査家ではないのですか。」 カルロ・エリッツォは驚いて答えた。
「カルロ、君は商人のくせにジャンピエロ・デ・ブラツィオ氏がなぜ大海洋に乗り出していったか、 知らないのかね。」 「はい、恥ずかしながら。」
「商業担当の顧問ならば、ブラツィオ氏が12年間政府に送り続けた嘆願書を一度読んでみたまえ。 彼は、1499年11月、バスコ・ダ・ガマのインド航海成功をリスボンで目の当たりにして、 インド方面の新規市場を開拓し商圏を拡大することが、ヴェネツィアの生き残る道となると信じた。 もっとも、国家の支援や海洋技術が及ばずインドに到達するまで30年以上もかかってしまったが、 彼の業績としてよく知られている新大陸の調査など、インドに辿り着くための寄り道に過ぎなかったのだよ。」
「彼の情熱によって、中東・インド・東南アジアには有望な交易中心地があることが判明した。 ならば、何を言われようとも、交易効率を高め現地で貿易を行いやすく商人の支援をするのが、 彼の遺志を継ぐために政治家としてできることではないのかね。」
「遺志を尊重するなら、ブラツィオの後継者を指名する、という方法もありますが。」 「いや、これからは商圏拡大の時期だ。 それに、ブラツィオ氏以上の航海者は当分出てくるまいよ。」
ロッキは、首を振って沈黙した。
(ドージェの資質は優れた船長と同様『舵取り』にある、か。) カルロ・エリッツォは一礼して元首執務室から退室した。
1534年1月、十人委員会は従来採用していた国策『新世界の探索』を廃止し、 『統一的交易方針』を採用すると発表した。 ブラツィオ艦隊がゼタに帰港したのは、翌月2月のことであった。 (※ジャンピエロ・デ・ブラツィオについては「No.20 大航海時代(前編)(1499-1515年)」「No.21 大航海時代(後編)(1515-34年)」をご覧下さい。)
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