ミラノ破門戦争

1467年のシエナ破門戦争敗戦でミラノは教皇領に完全併合された。 (「No.13 フリウリ征服戦争(1466年3月-1474年9月)」をご参照ください。) しかし、ミラノの一般大衆からすると、他国に蹂躙されるのはとうてい容認できることではなく、 併合以来たゆみなく祖国解放運動が行われてきた。 そして、1496年、ついに教皇領から独立した。

ミラノはもともと拡張志向の国家である。 1498年に、隣国ピサに戦争をしかけると1499年にフェッラーラを割譲させた。

フェッラーラは、ヴェネツィアの都市ヴェローナの隣の都市である。 ミラノのような弱小の国家がフェッラーラを領有したことは、 「ブレシア取得に向けた国力増強のため、イタリア半島へ進出する」 との秘密の方針(「No.14 秘密にされた預言(1474年9月)」をご参照ください。)を実行に移すのに大変都合がよかった。

ヴェネツィアは大義名分を得るため、ミラノに警告を発したが、 (神聖ローマ帝国ポルトガルを敵にまわさないために大義名分が必要であった) 恐れをなしたミラノは、それ以来、他国へ戦争を仕掛けることをやめてしまった。 そのため、ヴェネツィアは口実を得るのに苦労していたが、 教皇領への働きかけが功を奏し、 1506年12月、ミラノは教皇クレメンス8世から破門された。

ミラノに対し『破門された統治者』という絶好の口実を得たことから、 第72代ヴェネツィア共和国ドージェ(元首)ルドヴィコ・フォスカリーニ コロンナは、 直ちにヴェローナへ全共和国軍の集結を命じ、 万全に準備の整った1507年3月、ついに、ミラノへ宣戦布告を行った。 世にいう「ヴェネツィアーミラノ破門戦争」の始まりである。

【ミラノ破門宣告時の状況】

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ヴェネツィアの動きを見て、シエナ及びコルシカもミラノに宣戦布告を行い、 ミラノはたちまち劣勢にたたされた。 戦争の早期解決を願ったミラノは、ヴェネツィアの要求をすぐに飲み、 1507年9月フェッラーラを割譲した。

波紋

ローマ教皇クレメンス8世は面白くなかった。

「余はヴェネツィアにおいてのみ教皇ではない。」 との言葉が残されているが、 ヴェネツィアのサン・マルコ教会の司教の任免権も持っていなければ、 対抗宗教改革推進のため、せっかく送りこんだイエズス会の奮闘もむなしく、 教皇の思い通りにヴェネツィアを変革することもできなかった。 (「No.18 プロテスタント革命2ー保守化(1500-03年)」をご参照ください。) そして、もともとは教皇領であったはずのミラノの持ち物(=フェッラーラ)まで ヴェネツィアが領有してしまった。

1509年12月、ついにクレメンス8世はヴェネツィア大使をローマに呼びつけ、 フェッラーラの返還を要求した。 もちろんそのような要求に、ヴェネツィア大使が首を縦に振るはずもなく、 激昂したクレメンス8世は大声で怒鳴った。 「それなら余は、誰の力を借りてもヴェネツィアを昔のような漁夫の村にしてくれるわ。」

ヴェネツィア大使は静かに答えた。 「睨下、もし睨下が理性をわきまえてくださらなければ、われわれとて、 睨下をただの田舎の司祭にするしかないでありましょう。」

人間、面と向かって言ってはならない言葉がある。 それは言われた本人自身が気にしている「悪い事実」である。 クレメンス8世の場合、聖職界での第一歩が、田舎の司祭であったことが災いした。

「立場をわきまえない者など『破門』だ!」 こうしてルドヴィコ・フォスカリーニ コロンナは、 1大使の失言により、ヴェネツィア史上、初めて破門された元首になった。

【破門】

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全カトリック教国を敵にまわした国を相手にする国などない。 破門を宣告された3日後には、同盟国ハンガリーから同盟解消の通告があり、 ヴェネツィアは国防上、極めて不安定な状況に追い込まれることになった。

【同盟解消】

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奇策

ヴェネツィアのような小国が全カトリック教国を敵にまわしたことは 明らかに外交上の大失策であった。 大使は直ちに罷免されたが、そのくらいのことではこの難局を乗り切ることはできない。

どうするべきか・・・ヴェネツィアの首脳陣が考えついたのは、 「破門」制度をうまくついた解決策であった。

1510年8月は、共和国ドージェ(元首)改選選挙の時期であった。 ルドヴィコ・フォスカリーニ コロンナは引退を表明すると同時に、 長男のベルトゥッチ・コンタリーニ コロンナを後継者として出馬させた。 ヴェネツィアにおいて、ドージェ(元首)の世襲は慣例として認められていなかったが、 事態が事態であるだけに、「破門の解消」と「政治の停滞なき権限の委譲」が重要であることを、 誰もが認識したため、ベルトゥッチが第73代ドージェ(元首)として選出された。

こうなれば、教皇庁としても破門を続ける口実がない。 同年9月1日、ヴェネツィアの破門が失効した。

【破門失効】

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この奇策に対する悔しさのあまり、血圧が上昇しすぎたのか・・・ 報告を受けたクレメンス8世は突然倒れ、帰らぬ人となった。 9月10日、コンクラーベが開催され新教皇インノケンティウス7世が即位し、 ヴェネツィアと教皇領の確執は終止符を打つこととなる。

≪作者注釈:破門効果の範囲≫ 破門は、国家に対して行われるものではなく、元首個人に対して行われる。 ・・・って、皆さん、よくご存じですよね。

もう1つの宗教革命

ヴェネツィア史上において影響を与えたのはプロテスタント革命であったが、 この時期、ヨーロッパ史上において重要な転機となる宗教改革が、 静かに行われつつあった。

1499年3月、飽きっぽいブルゴーニュの住民は、プロテスタントへの興味を失い、 「宗教改革」に取り憑かれはじめた。 (プロテスタント革命の発端については、「No.17 プロテスタント革命1ー激震と懐柔(1496-99年)」をご覧下さい。)

【プロテスタント革命をしたのは3年前では?】

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既存のカトリックに反する教義という点では、改革派もすぐさま弾圧を受けた。 改革派の中心人物であったマルティン・ルターならぬアレクサンダー・エルルマイヤーは、 1500年6月、ウィーンに亡命しオーストリア国王フランツ2世に謁見する。 エルルマイヤーの主張に感銘を受けたフランツ2世は、 国教を改革派に変更した。

周辺国の元首は、 「ウィーン以外の地域はみなカトリックを信奉している状況で、国内に無用な火種を招くとは。」 と心の中で馬鹿にした。

しかし、この出来事が、後年のヨーロッパの宗教マップを大きく塗り替え、 改革派でない国々にも大きな影響を与えることになろうと、誰が予想できただろうか。 そして、その影響は、後年のヴェネツィアにとって常に対峙しなければならない脅威として 立ちはだかってくるのである。

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