プロテスタント革命

1496年は、ヨーロッパ中に激震が走る年となった。 ローマ(教皇領)の堕落ぶりには前から眉をひそめる者が多かったが、 「神の救い」が得られなくのを恐れて、公然と批判できる者は少なかった。

しかし、15世紀半ばに活版印刷技術が発明され、聖書が世に広く出回るように なると、カソリックの教義と教会の物欲主義に疑問を感じる国が出てきた。 ブルゴーニュもそのような国の一つであったが、 ついにローマとの決別とプロテスタントへの改宗を宣言したのである。

【プロテスタント革命】

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ヴェネツィアでも物的資源の少ない国の知恵として文化的資源を生かすべく 1461年に新産業政策として『印刷業の育成』が、当時のドージェの肝入りで採用された。 この政策は大成功を収め、生産技術が毎月+15も得られるようになったが、 言論の自由が確立されているだけに、革新的な思想が広まるのも早かった。 1497年にはゼタが、翌1498年にはヴェローナがプロテスタントに改宗した。

【プロテスタント改宗】

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そればかりではない。 さまざまな書籍が市中に出回ると、人々は快楽主義に溺れるようになり、 保守的な教会の教義にだんだん耳を傾けないようになった。 そのため、宣教師を志望する者も全くいなくなってしまい、 いまや新教地域で布教もできない状況にあった。

ヴェネツィアは『重商共和制』であるだけに、商売にある程度妥協はつきものだということを 経験的に知っており、もともと異教や異端に寛容であった。 とはいえ、お互いを完全に尊重する、というほどには寛容にはなれず、 新教に改宗したゼタやヴェローナの人々と他の旧教を信じる地域の人々との間に、 徐々に不協和音が見られるようになった。

「いったい誰が『印刷業の育成』など推進したのだ。」 第71代ヴェネツィア共和国ドージェ(元首)ファブリツィオ・ポラーニ オデスカルキは 病床の中、昔の政治家に対して悪態をついたが、どうにもならないことであった。 この年、オデスカルキは新教と旧教の対立を最期まで心配しつつ、永遠の眠りについた。

≪作者注釈1:施政方針「印刷業の育成」と宣教師増加率の関係≫  「印刷業の育成」はヴェネツィア固有の施政方針。採用には「革新主義4」が必要。  但し「革新主義4」の水準だと、宣教師増加率はマイナスとなり、改宗活動ができない。

≪作者注釈2:「重商共和制」と宗教寛容度の関係≫  「重商共和制」は、異教及び異端への寛容度が+1。

新教懐柔政策

1499年3月、元老院では隣国ピサに大使として赴任していたピエトロ・ボルデノーネの 帰国報告会が行われていた。 ヴェネツィアでは大使の帰国報告は、赴任国の状況を詳細にわたって報告するものであり、 その出来栄えによって、中央政界へ引き立てられることも多く、 報告者にとっては重要なイベントである。

「近年、ブルゴーニュで始まったプロテスタント革命の影響は、 隣国ピサにも押し寄せており、新教教徒が増加しつつあります。 ピサは、我が国とは異なり、保守的な体質を維持する国家であるため、 『聖書翻訳禁止法』や『秘密集会禁止法』の導入によって旧教の再改宗を進める一方、 『信仰寛容の宣言』も行うことである程度新教教徒を認める方針をとっております。」

「『信仰寛容の宣言』とはどのような政策ですか。」

「国教以外の宗教を禁止するすべての法を廃止し、 平等に礼拝の自由や、軍役や公職の分野における職業選択の自由を与える、 というものです。 この政策の導入により、ピサでは新教教徒の不満は和らいできております。」

「また、ピサでは最近『裁判所』が設立されました。」 「それはどのようなものですか。」 「争いごとにおいて、両方の言い分を聞いてどちらが正しいか否かを判断する 機関であります。 これまでのように仲裁者の裁量によって裁くのではなく、 法に基づいて公正に両者を裁いており、民衆の不満を和らげるのに役に立って おります。」 「ほう。」

「革新的な気質を持つ我が国に『聖書翻訳禁止法』や『秘密集会禁止法』の導入はそぐいませんが、 法整備や行政機構の整ったいま、『信仰寛容の宣言』や『裁判所』の導入は、 我が国でも十分役に立つ制度でありましょう。 以上、報告とさせて頂きます。」

元老院の議員はもちろん、第72代ドージェ(元首)ルドヴィコ・フォスカリーニ コロンナも この報告に感嘆した。 ピエトロ・ボルデノーネは智謀家として、ドージェ顧問団に迎えられ、 『信仰寛容の宣言』『裁判所』が政策として実現された。

【宗教によって差別してはならない】

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このうち、ヴェネツィアにおける『裁判所』は法に基づき非常に公正に判断を下すと 諸国からも評判となったのであった。

だが、これらの政策も、旧教徒と新教徒が同一の国家に混在するという意味で、 根本的な改善とはなり得ない。 では、宣教師を増やすためにどのような方策をとっていったかについて、 次話で述べることにする。

(No.18に続く)

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