1444年5月、ヴェネツィア市民は第67代ヴェネツィア共和国ドージェ(元首)に 「外交官系候補」アゴスティノ・コンタリーニ アルドブランディーニを選出した。
市民はアゴスティノ・コンタリーニの外交官の経歴に注目し、 『ビザンティン難民』を受け入れる外交能力(外交7以上)を持った人物であることを 期待していたのだが、皆が彼の能力を見誤っていた。 彼の真の持ち味は優れた統率力と戦術に関する豊富な知識、 そして強運の持ち主であることにあった。
【喜んでいいんですよね?】
1445年10月、オスマン帝国パディシャー(皇帝)ヌマン1世が崩御した。 皇太子のアリー1世が後を継いだが、当分は摂政評議会が政治を指導しなければ ならなかった。 なにせ、この皇太子は生後2ヶ月の赤子だった。
しかし、これはヴェネツィアにとっては大変な好機であった。 ヌマン1世の崩御により、これまでヴェネツィアに出されていた「警告」が無効となり、 オスマン帝国は新たな「警告」も「宣戦布告」も出すことが 今後15年間もできなくなったのだ。
「全軍をトレヴィザーノに集結!」 すぐさま命令が発せられた。 それでもアテネ方面に展開させていた兵をトレヴィザーノまで移動させるのに2ヶ月を要した。 準備を万端に整え、1446年1月、ヴェネツィアはミラノに宣戦布告した。 世にいう「ヴェローナ征服戦争」である。
本気になったヴェネツィアにとってミラノなど敵ではなかった。 共和国軍は各地で連戦連勝、ミラノ軍を完膚なまでに叩きのめした。 1446年6月、すっかり士気を挫かれたヴェローナ市民は、 共和国軍に開城し、翌日ミラノとの講和が成立した。
【悲願】
1399年に第62代ドージェ アントニオ・ヴェニエルが方針を打ち出してから約50年、 ヴェネツィアは一人の「恵まれた男」の出現により、 ここにやっとミッションを達成することができたのであった。
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