キリストの武装せる腕――チュートン騎士修道会興隆史

縛りについて

 前回の最後で提示された縛りは

 を選ぶことにします。一応、二つともプレイ中に消えてしまったため、その後

 を選んで継続したものとします。

プロイセンという国家

 17世紀末のプロイセンに対するキリスト教世界の認識は大まかに言って、ルーシで暴れまわる野蛮な騎士団といったところであった。

 しかし、実際に現地を見聞した商人や伝導師の証言によると、よく整備された都市と賑やかな市場をもつ、欧州でも指折りの発達した地域でもあった。

 それが広く知られていないのは、歴代の国王が自作農政策と農奴政策を交互にとることで、発生した悪評によるものと考えられている。

 あの凶暴な修道騎士団であった頃からは想像もつかないことだが、騎士たちは広大な領土を治めるに足る官僚制を整備していた。官僚は街道を整備し、運河を開き、現地の慣習に配慮したきめ細やかな支配をしていた。

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 地域発展のため、積極的に現地の産業振興も手がけ、錬金術師ヘルマンが創始したと伝えられるワルシャワ陶磁器などは、今でも広く愛用されている。

 ヘルマンは陶磁器の製法を完成させた後、技法を秘匿するため監禁された。しかし、生活はその成果に見合う豪勢なもので、伝説によると十五人の愛人との乱交の末に鼻血を流して死亡し、常人の5倍はある腹周りのせいで一人を圧死させたと伝えられている。

 東方への植民にも力を注いでおり、元々が騎士修道会らしく、神の教えを伝道している。この時代になると、入植者の一段が太平洋に達し、中国の皇帝に親書を携え、謁見したという記録が残っている。

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 この伝導先で数々の聖遺物が発見されるのだが、これらの出来は実に雑で、ローマの万屋で買ったガラクタに怪しげな司祭がお墨付きを与える茶番劇が広く行われていた。

 さすがにこの頃になると、効果は薄くなっていたのだが、自分の教会に泊をつけようとする輩は後を絶たず、酷いのになると復活したキリストが、シベリアを通って中国にまで伝導する過程を記した本を北京の書店で発見したりもした。

 その書はプロイセンの中華帝国への野心の証と見なされて、外交問題にまで発展しかけたため廃棄され、今ではどんな内容であったかは不明である。

 ウルリッヒ1世がイスラムの雄であるオスマントルコへの完全な勝利を収めたことで、プロイセンの欲望はさらに強いものとなった。かつて、バルバロッサすらなしえなかった聖地奪還が、その視野に入ってきたのである。

 これまでは拡大した領土を安定化させるため、オスマンへの進撃を控えていたが、国内が安定したとなれば話は別である。異教徒の手にある聖地を奪還する。これ以上の栄光はありえないと信じていた。

 栄光を掴むため、プロイセンはアンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアを目指して南下する。北方からの衝撃にイスラム最強の帝国オスマンは敗北を重ね、聖地を差し出すことで、この十字の紋章をつけた蛮族の一時の歓心を得ることしか出来なかった。

 幾度となく続けられた戦役は勝利に次ぐ勝利を重ねた栄光に満ちたものであった。この戦いで誕生した綺羅星のごとき将星を語るのは別に機会にして、一気に五大教会奪還へ飛ぼう。

 
 
 
 

真実への目覚め

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 時は1750年。オスマンのスルタンをバルカン半島へ追いやることで、この十字軍は完全な成功に終わった。ムスリムの聖地メッカをも手中に収めることで、その勝利をより確かなものにした。

 十字軍における輝かしい成果はキリスト教世界に衝撃をもって迎えられた。フランス王は最後の審判で対面する聖王ルイに先駆けて、その勝利に祝辞を述べたという。

 各国は十字軍を題材にした絵画や彫像を送り、プロイセンの偉大なる勝利を称えた。

 欧州でも指折りのカトリック国の態度に気をよくしたプロイセンは、ローマ教会における自国の地位が確実に高まると確信していたが、ローマ教会の心情は想像以上に複雑だった。

 ローマ教会は教皇が主導したわけでもない戦役で十字軍の目標を達成され、プロイセンに強い警戒を抱いたのである。

 その警戒心は枢機卿の任命数にも現れており、あれだけの成果を上げたにも関わらず、プロイセンのカトリックにおける地位はまったく上昇していなかった。

 この時代、すでにローマ教皇の権威は低下し、多くの国はそれほど気に病まないのであるが、元々が修道騎士団であるプロイセンにとっては、重大な問題として受け止められた。

 東方に巨大な帝国を築いたプロイセンをローマ教会と、その番犬であるポルトガルが警戒しないはずがないのであるが、以前から自分たちの築いてきた信仰の証を全く反映しない教会組織への反感は次第にはっきりと形となって現れていく*1

 教皇は影響力を強めてきたポルトガルへの牽制のため、プロイセンを必要としており、その力を欲していたが、これ以上強くなられても困る難物であった。

 プロイセンはこの状態を打破するため、さらにペルシアに対して進撃を開始したのだが、それはさらに教会の警戒を強めるだけであった。

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 所詮、プロイセンのイモには教会組織の建前と現実の狂おしいまでの乖離は理解できなかったのかもしれない。彼らの信仰心が純粋で深いものであったことは、聖地奪還までの反吐が出るような残虐行為で差し引いても、疑う余地はないだろう。

 その結果、プロイセンは信じられない選択をすることとなる。プロイセン当局はそれまで弾圧してきたプロテスタントに対し、好意を向け始めたのである。

 時のプロイセン王ヴィルヘルムがイタリア出身の王妃を嫌っていたことも、それに弾みをつけた。王妃の侍女マルガリータと通じた王は離婚を決意すると、司祭に自分と侍女との式を行うよう要求。当然のようにこれが拒否されると、その足でイスラエルへ赴き、現地でマルガリータと結婚する。

 マルガリータとの結婚式で、王は「聖約・運命の神槍」を掲げ、以下のような演説をしたと言われている。

 
 
 
 

エルサレム、アレキサンドリア、コンスタンティノープル、アンティオキアこれが何なのか、神に帰依した諸君らに教えることは大いなる侮辱だろう。

だが、これらが何を指しているか、言葉を重ねても理解できない者たちがいる。ローマに巣くう魔物たちだ。

異教徒の手に落ちたこの古の教会が我ら信徒の手に取り戻されたというのに、神の代理人を称する輩はそれを今にも忘れ去ろうとしている。

何故か? それは彼奴らが神から与えられた我らの使命を蔑にし、同胞への嫉妬に狂っているからである。

嫉妬は傲慢に次ぐ、七つの大罪の一つ。これこそ、ローマの堕落の何よりの証拠である。神を語る資格などありはしない。

ローマでは神の教えは忘れ去られている。我々は真なる神の言葉が記されて聖書に回帰しなければ、最後の審判で永遠の死を与えられるだろう。

もはや一刻の猶予もない。怒りの日を恐れるならば、臣民は我に続け。

救世主が降臨した地に立っていることが、我らの正義を何よりも確かなものとしている。

これより、ローマ教会を脱却し、プロイセン国教会を創設するものとする。

聖書に宿る神の御心は常に我らとともに、あることを忘れないでほしい。

エェェェェェェェェイメン!!!!!

 
 
 
 

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 こうして、プロイセンはプロテスタントに改宗することになった。だが、この必然性の薄い改宗に疑問の声は多く、人口の大半を占めるカトリックはあからさまな不快感を示した。

 多くの者はローマ教会のプロイセンへの待遇が悪いことに対する反発が、歪んだ形で噴出したものと見ており、ローマ教会が何らかの譲歩を示せば再び改宗するものと見られている。だが、この演説にローマ教会を始めとするカトリック諸国は態度を硬化させており、譲歩を引き出すことは難しいとみられている。

 この時代遅れの十字軍の明日は何れか、まだはっきりしたことは分からない。

 
 
 
 

縛り候補

 遅くなった上に、短くなって申し訳ありません。

 遅くなったのは、実はプロイセンを革命共和国にしようと試行錯誤をしていたことが主な理由で、見事に失敗しました。短くなったのは、対オスマン戦は技術の差もあって、圧勝に次ぐ圧勝だったため、どうにも面白みに欠けていたためです。

 それでも、ここまで読んでくれてありがとうございました。このAARでは恒例の縛り候補を以下に並べます。次のプレイヤーがどれを選んだかは、次回をお待ちください。

 次の作者がどれを選んだのかは、次回をお楽しみください。


*1 本当に枢機卿が一人か二人しないプレイが続いた

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