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カッチを得たことにより、インド交易会社の設立に成功。
重商主義に振っていて、国威がMAXあるにせよ、ドイツ小国連中が元気なので 交易の独占体制が完璧とは言えない。 少しでも競争能力が上がるのはいいことである。
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1586年4月 後継者アンリ、前年に続いてまた病に倒れる。 今回も医師団の働きにより50%の確率で一命を取りとめた。
アンリ・ド・ヴァロワ12歳、前途多難である。
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内乱中だったこの地域に新興国家クリミアが誕生
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したので、併合しておいた。できたての国家オイシイです。悪評8.3
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この頃の南米 順調である。本格的に殖民を開始してからわずか25年、遊牧民ボーナスはやはり効果的。
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休戦協定も明けたので、再度マムルーク朝に侵攻。 今回の戦略目標は、聖地の奪還とシナイ半島=紅海ルートの奪取である。
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計4個師団で、要塞を突撃で破壊しながら速攻をかける。
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1589年8月 戦勝点42点で、10領奪って和平。悪評16.0。 アラビア半島側に広いのは、戦勝点コストが安かったのと、 旧オマーン領に防衛施設2が多かったゆえか。
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東南アジア方面もほぼ探索したので、アチェ、および属国マラッカに宣戦布告。 目標はCOTのあるマラッカ1領である、とりあえず。
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ところが、ここで誤算が。 アチェは現在、バリ、パッターニ連合と交戦中で、いくつかプロヴィンスを占領されている。
ここまでは事前の調査で予測できたのだが・・・
なんと、アチェの首都がマラッカにあるじゃないか。 なんで遷都してんだよ~
敵国の首都プロヴィンスを落としたい時は、もう全土併合するしかないわけだが、 すでにバリとパッターニにいくつか占領されている。
そこで、フランスの採った選択は・・・
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当然、バリとパッターニに宣戦布告して、占領下のアチェ領を奪う暴挙に出る。
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結局、相争う東南アジアを、全部敵に回すフランスの雄姿がこれである。うーんひどい。
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それを見たチェロキーがケンカを売ってくるという。うーんウザイ。
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1592年12月 結局、アチェとマラッカとパッターニを全部併合して、東南アジアは平和になったのだ。 悪評、20.9。
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マラッカ海峡から先もようやく探検開始。 日本が発見されたのは、史実から大きく遅れた1594年のことである。
続く