キリストの武装せる腕――チュートン騎士修道会興隆史

山脈を超えて

疲弊の克服

 70年戦争と呼ばれた戦乱の時代を終えた頃、ドイツ騎士修道会は明らかに疲弊しきっていた。広大な領土を有してはいるが、そこに住む民たちはあい続く戦乱と、騎士たちが戦争を継続するために課した重税、そして騎士たちが戦争にかまけ内政をおろそかにした結果として訪れた、全面的荒廃がそこにあった。

 それだけではない。70年戦争を通じて徹底した領土拡張を行なってきた結果として、ドイツ騎士修道会は周辺諸国から極めて危険視される存在となっていたのだ。特に神聖ローマ皇帝位を擁するオーストリアと、北辺の異端の大国スウェーデンとの関係は最悪であり、重大な軍事的脅威となっていた。

 このように内憂外患を抱えたドイツ騎士修道会を率いるに当たり、ホッホマイスターたるヴォルフガング1世の能力はいささか不足していたと言わざるを得ない。結果として、各地で叛乱が勃発し、彼はその弾圧に奔走することになる。

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 しかし彼とて無策であったわけではない。国内の混乱を鎮めるにあたって徹底した武力を用いるのはドイツ騎士修道会伝統の手段であったし、軍事力と優れた将軍なら対ロシア戦で培われたそれが十分にあった。そして外患に対しては、優秀な外交官たちを欧州各地に派遣して悪評を下げると共に、限られた予算の中から外交費を捻出して関係改善に努めていたのだ。    ドイツ騎士修道会の外交費は主にオーストリア、スウェーデン、教皇領に投じられ、オーストリアとの関係は向こう側から同盟を提案してくる程度に改善された。スウェーデンとの外交はドイツ騎士修道会のイデオロギー的問題から秘密裏に行われたが、これもまた成果を上げ、国境における緊張関係は緩和された。そして、教皇領への投資は、枢機卿団を買収し教皇の御者となるという大きな成果をもたらしたのである。これ以後、数十年にわたり、ドイツ騎士修道会はポルトガルやカスティーリャと熾烈な教皇庁内闘争を繰り広げることになる。

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 ウォルフガング1世はただちに教皇庁を動かしてミラノへの破門を撤回させ、イタリアがオーストリアやフランスの狩場とならぬよう手を打つと共に、ミラノ公に大きな貸しを作った。

 このようにして内憂外患に手を打ちながら、ウォルフガング1世は国内の統治制度の強化にも乗り出した。先の戦争で傷ついた兵士たちのために廃兵院を建設し、広大な領土の連絡を密にするため郵便局や道路を建設し、国税収入をより効率的に集めるため、按察署を各地に設立していったのである。未だ国内の政治的混乱は収まっておらず、集権化の象徴であり税を絞りとる按察署の建設は領民の新たな不満を呼び起こす危険性があったが、周辺大国に伍する軍事力を維持・拡大していくためには、どうしても避けられない選択肢であった。

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 なお、このころ属国であるブランデンブルグにおいて内紛が発生し、反体制派を支援しようという動きがあった。なぜ属国の反体制派を支援せねばならんのかさっぱり意味がわからない。

東方征服再開

このようにして国内の基礎を固めた後、ウォルフガング1世はロシア征服を再開した。異端の守護者たるモスクワがロシア救援のため宣戦布告してきたものの、ドイツ騎士修道会側はオーストリアとの同盟により、圧倒的な優勢を誇っていた。「コンラート方陣」の圧倒的な強さも相まって、ロシアは1年もたたずに屈服。サラトフ、モルドヴァ、サマラ、クルガン割譲という和平条件を呑んだ。返す刀でウォルフガング1世はモスクワを攻め立て、リャザン、ニジニ・ノブゴロド、ムーロムを独立させた。

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モスクワは本来ドイツ騎士修道会が成立させてやった傀儡国家であるにもかかわらず、何度も反抗してきたため、徹底的な懲罰が必要であるとウォルフガングは認識しており、ドイツ騎士修道会のさらなる東方拡大において、地獄の業火に投げ込まれるべきと確信していた。

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戦後まもなく、騎士団の内部で野戦を至上とする攻撃主義派と築城・攻城を重視する防衛主義派の対立が起こったが、ウォルフガング1世は後者の意見を取り入れ、優れた築城と攻城技術に重点をおいた軍事改革を行うよう命じた。騎士団の主敵は異教徒・蛮族であり、それらに対しては「コンラート方陣」の優れた戦闘力で対処できることと、未だ国内混乱が収まらず、各拠点の防衛を強化する必要に迫られてのことである。また、これに並行する形で、ウォルフガングは西武国境地帯の防衛強化を命じた。同盟を組んだとは云え、オーストリアは潜在的脅威であり、ドイツ諸侯もまた油断がならない存在だったからである。

リャザンとの戦い、そして内乱

 先のロシア戦の傷もまだ癒えていないというのに、モスクワから独立させた東方属国群での対立が火を吹いた。リャザンがムーロムへと宣戦布告し、ムーロムがドイツ騎士修道会に救援を求めてきたのだ。これを口実として、ウォルフガングは真の信仰のさらなる拡大を目論んだ。ただ、長期戦は出来れば避けたかった。国内は未だ不安定であり、戦となると必ず呼応して反乱を起こすものが現れるからである。実際、リャザンとの闘いは、短期のうちにトゥーラ、カシモフを割譲させることで決着したが、国内では叛乱が頻発し、再びウォルフガングは各地の部隊を用いて反乱鎮圧に奔走する羽目になった。

 しかし、すばらしい知らせもあった。ロシアに対するあくなき真の信仰の拡大により、ついにロシア系民族がドイツ騎士修道会の中核文化となったのである。

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 だがそれは、ドイツ騎士修道会がかつての「北の十字軍」から、東方を基盤とする領域国家へと変質した決定的瞬間であったともいえよう。  

さらに東方へ

 ロシア系文化の中核化から程なく、またもや東方属国群で火の手が上がった。トヴェリがムーロムへと宣戦布告し、それを救援する口実を得てドイツ騎士修道会はトヴェリを蹂躙した。これにより、ヴャズマ、ヴェルトガ、ヴォロクダ、ウスチュグと賠償金をもぎ取り、ロシア中核地帯へと更に大きく勢力を広げると、返す手でロシアを攻撃し、ウファ、クルガン、ウファ北部を占領。ロシアの領土を分断した。そして5年の休戦期間が終わった途端にロシアに再度宣戦布告。ロシアを救援したヤロスラブリからコストロマを、ロシアからはトボルスクとオブドルスクを奪い、ロシアをペルミの1プロヴィンスに追い詰めたのである。

 このようにして東方の異端残党を制圧しながら、ウォルフガングは長らく抜本的な改革が放置されたままだった貿易についても施策を行った。合理的商慣習を取り入れ、輸入法を制定することで、国内から異国の貿易商人を駆逐し、利益を独占することが目的だった。また、コンラート方陣を更に改良し機動力と火力を増した「ウォルフガング方陣」を騎士修道会の戦闘隊形に組み入れた。

 ウォルフガングはその他の国策についても見直しを考えていたようであり、それは「修道国家としてのドイツ騎士修道会を近世的な領域国家に変革する」方向であったと思われる。しかし彼がその改革の結末を見ることはなかった。彼は1644年2月10日に没した。後を継いだのは、巧みな軍事・行政手腕を持つウルリヒであった。

ウルリヒ1世の治世

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 ウルリヒ1世は先のホッホマイスター、ウォルフガング1世が成し遂げられなかったロシア征服を、その喪が開けると同時に実行に移し、ロシアを滅亡させた。これによりかつてドイツ騎士修道会と教皇の間で取り交わされた「ロシアを滅ぼせばルーシ王の地位を与える」という協約が果たされたことになる。騎士修道会内部の世俗派に推戴されたウルリヒは、不承不承ながら騎士修道会の発展的解散と王国の建国を命じ、ここにポーランドからウラルに至る広大な領域を誇るプロイセン王国が誕生した。

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 さて、プロイセン王国を建国し、自らその国王に即位した(させられた)ウルリヒ1世であったが、彼は童貞であった(迫真)。騎士修道会の厳格な戒律の下に自らを鍛えあげてきた彼は、女人との交わりを避け、神に上の剣も下の剣も捧げていた。十字軍に参加するだけでいくらでも贖罪されるのだから女人と交わることは全く問題ないはずなのだが、かつての騎士修道会のカルト化政策と対抗宗教改革が、このような純粋培養の信仰人を生み出してしまったのだ。

 そして童貞は神への純粋な信仰と下半身の鬱勃たるパトスに突き動かされ、ある決断を下す。それは「オスマン打倒」であった。一説には、ハプスブルグ家の美しい姫に一目惚れし、求婚したものの「プロイセンって田舎で抹香臭くてダサいからイヤ(意訳)」と突っぱねられたことが童貞の純真な心をいたく傷つけ、このような男子の一大決心をなさしめたともいう。これをもって「女は恐ろしい」とプロイセンでは語られるようになったが、純粋培養の童貞たるウルリヒ1世が果たしてそのような悲恋を体験したかどうかは、歴史家の間でも意見が別れている。。

 ともあれ、童貞、もといウルリヒ1世はプロイセン王国の世俗派諸侯(といっても、大半は修道騎士や地区司教の成り上がり貴族たちだったが)の支持を集め、いまだ修道思想に凝り固まっている旧来の騎士や司教たちにも聖戦の大義を唱え、1649年にオスマン打倒の兵を挙げる。

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 オスマン戦争は順調極まりなく進んだ。当時オスマンはカスティーリャ相手の大戦争で疲弊しており、戦力も各地に分散していたからだ。ウルリヒ1世の童貞軍は国境の防衛網を障子のごとく突き破り、はるか小アジアの奥地まで突いて突いて突き進んだ。これにはオスマンもたまらず講和を申し出てくる。ウルリヒとしては未だ欲求不満であったが、公開レイプめいた対オスマン戦で勝ちすぎれば周辺諸国のいらぬ警戒を呼ぶと、外交顧問団に説得されてしぶしぶ上の剣も下の剣も収めた。

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 しかし、オスマンは講和の代償として、ダゲスタン、カルトリ、イメレティ、ムーサ、エルゼルム、トラブゾン、シワス、アダナ、アンゴラ、カスタモヌ、カラマン、ビチュニアをプロイセンに割譲し、400ダカットもの賠償金を支払わされたのである。童貞の行き場を失った性欲のはけ口としては、これほど悲惨なものもそうなかったであろう。

 だが、この戦争は童貞を男にした。オスマンの勝利者たるウルリヒ1世は貴族や騎士階級の支持や崇敬を受け、結果として世俗派諸侯たちは自らの娘や息のかかった係累を童帝に捧げることで外戚としての地位を確立しようと試み、猛烈な婚姻合戦の結果、よりどりみどりの候補の中から一人を選ぶというそれなんてエロゲ的展開の末にウルリヒは童貞を捨て、嫁とラブラブ新婚生活に突入したのだ。その間、いまだ続く苦難の時(いつ終わるんだよ!)に耐えかねた農民たちや、中央集権化に反対する地区司教や土着修道騎士たちが叛乱しまくっていたのだが、妻への愛情に満たされたウルリヒは気にもしなかった。

そして待望の後継者、ヴィルヘルム・フリードリヒが生まれる。

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 ウルリヒはその顔を見て「これまでは信仰のために闘った。これからはこの子のためにも闘おう」と云ったという。このエピソードから、世襲制封建国家への意識が、もともと推戴されただけに過ぎず修道騎士の性質を強く持っていたウルリヒの中にも芽生えたことが窺える。そしてそれは、彼の中にあった修道騎士の性質と結びつき、「神と俺と子の三位一体による聖別された絶対統治」という概念へと結晶しつつあった。

 1654年。彼は「俺が国家だ」と宣言。絶対主義をプロイセンに樹立した。騎士修道会の王国化に伴って地方の権力者に蝕まれた主権を回復し、なおかつ自身こそ神に選ばれし絶対の支配者であると宣言することにより神と自身と、そして愛する息子を強く結びつけることが目的だった。

 当然、その施策は地方貴族化していたかつての司教や修道騎士たちから猛反発を受け、各地で叛乱が勃発したが、ウルリヒはオーストリア、カスティーリャの貴族と自らの一族を婚姻させると共に、世俗派諸侯の大立者たちを後ろ盾にして正統性の回復と強化を図った。

 そしてウルリヒは、プロイセン王国があくまで神のものであることを最確認するように、「真実の宗教の進歩法」「礼拝統一法」「秘密集会禁止法」を立てつづけに発布。緩んでいたプロイセン王国内の信仰の建て直しと、領域内外への布教の拡大を目指した。またこの時期、長らく属国であったブランデンブルグを外交的に併合し、プロイセン王国領内に孤立していた異端国プスコフを攻め滅ぼすなど、軍事的な活動も怠らなかった。

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 しかしそれらの政策は、いささか性急に過ぎた。その反動としてただでさえ国内問題を抱えすぎているプロイセンに更なる問題が発生し、恒例の叛乱祭りと安定度の回復にウルリヒは足をとられることとなる。また、リトアニア系民族が相対的に少数化した結果、中核文化から離脱してしまったのもウルリヒとしては悩ましい所であった。

第2次オスマン戦争

 このように足元が危うい中でも、ウルリヒは己の大望を忘れることはなかった。すなわちオスマン征服である。国内混乱も一段落した1665年、ウルリヒはオスマンに再度宣戦布告。カスティーリャの助けも得て優勢に戦闘を進め、ブルサ、スミルナ、アンタルヤ、アナトリア、コンヤ、ロードスを奪い取り、625ダカットの賠償金を払わせた。

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 これにより小アジアはほぼプロイセンの支配するところとなり、新たに得た領地にはウルリヒの命を受けた宣教師たちが送り込まれた。ウルリヒはこれにあきたらず「目標はイェルサレムだ!」と意気軒昂であった。  しかし、オスマン戦争による急激な領土拡張は、またも統治の混乱を呼び、恒例の叛乱祭りを引き起こすのであった。

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 さしものウルリヒも世俗派諸侯に配慮し、議会制度法を制定して絶対主義の緩和に走らざるを得なかった。ウルリヒは終生この決断を呪わしいものと考えていたようだが、後世から見ればやむを得ないものだったといえよう。

モスクワ攻略戦

 過剰拡大によって足元がふらふらのプロイセンであったが、ウルリヒは覇道をあくまで推進した。すべては神と俺と子のためである。プロイセン領内に孤立した島のように浮かんでいるモスクワは大変目障りな存在であり、なおかつプロイセンの正統な領土を不法に支配していた。そのため、ウルリヒは1699年にモスクワに宣戦布告。ビャートカ、ソリカムスク、ニズニイ、ウラジミール、ルジェフを割譲させ、550ダカットの賠償金を得た。もちろん、新たな領土には即座に宣教師が送り込まれた。

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 しかし、その戦勝祝賀会に、何を浮かれたのかウルリヒは国内諸侯の反感を買う発言をしてしまった。まったく困ったものだ。

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キプチャク・ハン国攻略

 国内の混乱がまた一段落した1675年に、ウルリヒ1世はキプチャク・ハン国攻略を開始した。プロイセンの正統な領土を不当に領有している、それが根拠だったが、実際のところ何でもよかったに違いない。意気揚々と出陣したウルリヒであったが、出陣先で風邪を引き、そのまま頓死した。ドイツ騎士修道会を近世的王国に変革し、国内に様々な改革をもたらし、外征に大いに手腕を振るった一代の梟雄の、あっけない最後であった。

そしてヴィルヘルム・フリードリヒ1世の時代へ……

 ヴィルヘルム・フリードリヒ1世は父ウルリヒ1世に愛されて育ったが、所詮名もなき修道騎士であったウルリヒと、国内の田舎くさい諸侯の娘との間に生まれたということで、あまり王国の継承者としての正統性を認められていなかった。なにしろウルリヒにしてからが、国王に即位する際オラニエ家に献金して「オラニエ家ゆかりの者」という称号を買ったくらいなのだから(これはウルリヒ伝説の一部であり、実際にウルリヒはオラニエ家の係累だったという説もある)。

 また、ウルリヒは自らを半ば神格化することでその統治を確固たるものにしようと試みたが、その反感はウルリヒのみならず息子のヴィルヘルム・フリードリヒにまで及んでいた。ゆえに、ウルリヒが戦場で頓死したと聞くや否や、毎度毎度の叛乱祭りが起こったのは云うまでもない。

 ヴィルヘルムはこれに対し、キプチャク・ハン国との戦争をイドナカル、スルグットの割譲と550ダカットの賠償金で手早く終わらせ、司法制度法を敷くことで公正な統治者であることを諸侯と国民に知らせ、さらに諸侯の実力者たちを自らの後見人として政治にかかわらせることで国内緊張の緩和を狙った。更に彼は内閣を設立し、ウルリヒ1世時代の絶対主義と一線を画した官僚体制を構築することでこの困難を乗り切ろうとした。

 彼の改革がいかなる実を結ぶのか。それは未だ未知の領域である……。

今回と次回の縛りについて

「宣戦布告はロシアが滅亡するまでロシアだけ」という縛りを引き継いでのプレイでしたが、同盟国が攻められた場合の参戦要請に対してどうすべきか迷ったため、防衛側同盟参戦はさせて頂きました。もうしわけありません。  あと、ロシア縛りがなくなったあと、自分で縛りを作らずに自由にプレイしてしまったのは申し訳ない限りです。

 ところで、どうもデータがバグっているかHttT固有のバグなのか分かりかねるのですが、何時まで経っても入植政策と苦難の時が消えません。ですので、次のプレイヤーの方にはチートコードを使って苦難の時を消されることをお勧めしたいところです(弱気)。

 次回縛りですが、ここまで勢力が大きくなると縛りもなかなか難しいので。

1・おそらくバグってると思われる入植政策と苦難の時を消さずにそのままプレイ 2・オスマンを打倒してイェルサレム奪還後、ペルシアからインドへ陸続きで進撃しインドを征服 3・同盟を破棄し神聖ローマ帝国領を全て征服、ドイツ国家建設

 こんな感じでどうでしょうか。  宜しくご検討ください。


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