(承前)
カウナを獲得。 カンペチェを喪失。 四個目の国策「総督制度」を採用。これは関税収入を+25%する。
1586年、ついにハワイが中核州となった。さっそくメキシコ北部のウイチョールに入植開始。 日付変更線を越えて入植者を送る場合、セーブ&ロードでゲームがクラッシュする。そのため、ある程度入植者が溜まるまで待機し、入植者の到着予定時刻を横並びになるように調整して送り出した。 そして入植地に到着後、ポーズ&セーブを行う。派遣途中にセーブしてもそのセーブデータは使用できない。 我が国の入植者数は年間+1.2人である。よって、丸4年の待機後一斉に入植、というパターンが固定化した。
上図に示したカリブ海沿岸の日本領ホンジュラスも1594年に中核州化する。これはアメリカ東海岸にも入植可能となることを意味する。
1585年、破滅的な戦いとなった日本による第二次インカ征服の結果、勝利が達成されました。 同年、チムーが日本により併合され、南米における初の日本領となった。 1590年、第3次インカ征服戦争。第3次チェロキー征服戦争。 これらの原住民国家は全土を占領して戦況スコア100%を獲得しても戦争は終結させない。できるだけこういった無害な戦争は長引かせ、その全期間を通じて 戦争税(国税修正+50%)を得る。この手はよく使いますよね。
入植成功確率も向上するため、早めに取っておきたい政体である。
また、満州と軍事同盟を締結した。明は満州と朝鮮に侵食され、長きに渡る明-朝鮮戦争でも外敵を排除できなかった。 シベリアの日本植民地が国境線の大部分を満州と接している点もふまえ、満州は日本の同盟相手に相応しいという国家戦略上の決定がなされたのだ。未来の清には、領土拡張欲を明に対して開放してもらうよう誘導すべきだろう。明よ、今まで日本に宣戦しないでくれてありがとう。
1597年、コネティカットに初の東海岸入植地を建設した。
この人生では13プロヴィンスを獲得した。 海賊対策法を施行。 1616年、5つ目の国策「希望の地」を選択。全植民地の成長速度が+20%に加速する。 また、「革新主義をお気に召されている」と評されているが、実は西欧化に支障のない範囲で保守主義に寄せようとしていた。早期に宣教師を得たい。
1616年、私は世界地図を眺めながらこと切れた。満面の笑みを浮かべたまま。 七度目の人生が終了した。
この人生では、初めてスペインとの小競り合いを経験した。アラビア半島にてクリストバル・デ・アラゴン率いる6000人と日本軍4000人が戦い、スペイン軍にはほとんどかすり傷しか負わせることができなかった。 我が国の陸軍レベル15に対しスペインは22。全く歯が、立ちませんでしたッ!! 日本は何の成果もなく、アデン割譲+賠償金で講和を購入したのだった。
セーブデータの中身を確認したらチムーが結構な額の金を持っていた。よし、さっそくチムーを再独立させてぶん殴ってやる! 力のある者から無い者への善意など、この世に存在しないのだよ。 ……なんてね。まあ実際はアタクシ優しさを隠して厳しく社会の矛盾と戦う偽悪家なのでして。チムーに甘美な民族自決を味あわせて差し上げたかっただけですw
この人生では19プロヴィンスを獲得し、1プロヴィンスを失った。 商取引所を設立。 議会解散法を可決。 そして八度目の人生が終了した。
この人生では19プロヴィンスを獲得した。 アメリカ東海岸の植民地建設に総力をあげた。 鉄のとれる出雲に兵器工場を建設。 ポルトガルが日本に対し植民地戦争を挑むが、彼我の戦力差は歴然で、しかも我が国は1万人規模の陸戦隊をヨーロッパ勢力との戦争に備え駐留させ、輸送船でカリブ海全域に迅速に配置できる体制を整えていた。 4年ごとに5人の入植者を送り出し、祈る。ただその繰り返しの生涯。だが希望に生きる身は楽し。理想に近づきつつある感動の中で、私の九度目の人生が終了した。
私が不在の間にオハイオを獲得した。 また、再独立していたポルトガルと植民地戦争を1年間戦った。 アメリカ東海岸への入植は順調で、ヨーロッパ勢力は北米大陸での橋頭堡建設に失敗している。